違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

時間稼ぎ

流行りがブームになった時に生産量や露出を増やすとやがてブームが終わり、持ってることが恥ずかしいものになり、気が付いたら消えてしまっている。

 

定番を目指したければ、ブームに乗らないこと。

 

ブームに乗らないためには、生産量や露出を一定以上増やさないこと。

 

ブランドとして地位を築いてるものには、ブームに乗らない(応じない)という戦略だけで希少性を保っているものも多い。

 

しかし、生産や露出の主導権が他者に委ねられてる場合は、このコントロールが効かなくなる。

 

本や出版やCDなどの著作権業界が典型的。

 

ブームを仕掛けたがる相手と組むと、使い捨てにされるのは自然の摂理でもある。

 

こういう事は、広い意味での芸能や風俗の世界には昔からあり、売れたら使い捨てにされ、売れなければ徹底的に搾り取られる。

 

この流れから抜け出た一部の人だけが一流芸能人として"定番"という地位を獲得できる。

 

定番になれるものは、広く受け入れられものでもあるので、一部の人に熱狂的に支持されても定番にはなれない。

 

 

そんな定番にも変化が生じて来ている。

 

もともとは、エンドユーザーというのは一種の"素人"だったのだが、最近では純粋な素人ではなくなってきている。

 

これは、世の中の人々が、"買いたい人"から"売りたい人"や"儲けたい人"にシフトしてるからだ。

 

 

 

情報商材の詐欺師「株式会社イメージ吉田夏記」、消費者庁が公開処刑....

吉田夏記社長は「YouTuber Creater マツケン」と名乗り、まずは情報商材を17,000円で販売し、その後10万~130万円の有料コースに誘導。5,000人が購入したものの、月50万円を稼げた者は0人だった。

 

吉田夏記社長はすでに虚偽の宣伝だったと認めており、株式会社イメージの会社HPや販売サイトは閉鎖済み。同じような事業を展開している業者は50以上あるとみられ、消費者庁は注意を呼びかけている。

 

 

定番になることを目指す人の多くが犯す勘違いが、定番になる前にはブームが起こると考えることだ。

 

行動を起こしブームが起きるまでにはタイムラグが生じると自然に思い込む。

 

その時間差を詐欺師に付け込まれる。

 

 

純粋なエンドユーザーを相手にするビジネスでは、多くの場合ユーザーの評価は使った瞬間にくだるので、時間稼ぎができない。

 

リアルに店を構えて商売する場合、客が無限にいるとは感じないが、同じ商材をネットで販売しようとする場合は、客は無限にいると感じてしまう。

 

だから、知ってもらうために時間が掛かるのはしょうがないと思いがちだし、そのこと自体は間違っていない。

 

イノベーションが語られる頻度が増えるのに比例してその正反対の世界も目立つようになっている。

 

 

ビジネス界が新定番を狙い、時間稼ぎができるビジネスを模索している。

 

時間稼ぎができる事は、クレーム対策も兼ねているが、忘れた頃にmetoo運動を起こされると倍返しを受けることになる。

 

本来自分で頑張ったり、工夫したりして辿り着く領域をお金と引き換えに手に入れることが生産性と呼ばれるようになると、自分自身で試行錯誤することを避けるようになり、ドンドンドロ沼に嵌っていく。

 

 

仮に上手くいっても退屈な人生が待っているだけだろう!

『のんびり』位が、丁度良いのかも!

俳優の田村正和さんの引退が報じられた。

 

名優・田村正和が“引退宣言“「僕はもう十分にやったよ」 2018/4/28(土)

――もう田村さんの姿は見られなくなる。

 

「残念だけど、再放送を見てください。良い作品も、悪い作品もあるけど……」

 

 およそ60年もの長きにわたり、俳優としての生き方を貫いた田村。多くを語らず、潔(いさぎよ)く――。なんとも彼らしい“男の引き際“となった。

 

 

 

田村さんの中での良い作品とは何だったのだろう?

 

私の中では、ダントツに『古畑任三郎』だ。

 

円熟の域に達したからこそできるコミカルな演技の妙があり、とぼけた雰囲気を醸し出しながら常に一歩先を読み、野暮な振る舞いをスマートにこなす名優だった。

 

つい最近何気なく衛星放送で再放送していた第40話「今、甦る死」(2006年1月3日放送)を見た。

 

 

藤原竜也が犯人役を演じているが、犯行のキッカケの一つが自身が小学生の時に書いた研究ノートを見つけたことで、その研究テーマが「完全犯罪」。

 

第40話の参考 :http://furuhata.fan.coocan.jp/contents/episode/40.html

 

 

小学生の頃に考えた完全犯罪プランを大人になって実行するというのが面白いと感じたし、子供が考えるから下らないとは言えないだろうなと思った。

 

結局、古畑任三郎に見破られるのだが。

 

大人になったことで忘れてしまってるが、今よりも子供の頃のほうがマシなことを考えていたのかもしれないということはたくさんあるかもしれない。

 

同じ理屈で、昔に考えたことだから旧すぎるという事も、実は少ないかもしれない。

 

 

ノーベル賞の受賞者の中には、ノーベル賞を獲れなければ"インチキ学者"呼ばわりと紙一重の人がいたかもしれない。

 

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https://www.nikkei.com/article/DGKKZO03424910Z00C16A6TJN000/

 

 

表面的にはハードウェアのヒットに見えるが、そのヒットを実際に支えていたのはプラットフォームだという時代の幕開けは、1995年のwindws95からと言って良いだろう。

 

コンピューターのブラットフォームであるOSの重要性に早くから気付いていたビル・ゲイツ、一方1980年にはコンピューター界の巨人であったIBMがOSの自社開発を断念していた、ビル・ゲイツがその先見性で完全に世界をリードするまでに約20年掛かっている。

 

ビル・ゲイツに遅れてプラットフォームの重要性に気付いたスティーブ・ジョブズもプラットフォームに主眼をおいた戦略に舵を切り始め、リリースしたのがitunesでありipodだったがそれだけではヒットしなかった。

 

当初、itunesはmac上でしか使えなかったからだ、その後windows上でも動作するようにしたことでヒットに繋がった。

 

iphoneがイノベーションのように言われるが、実際はitunes+ipodの集大成であり、イノベーションはitunes+ipodの方であったのだ。

 

現代はプラットフォームの時代と言われてるが、水面下ではもうプラットフォームは旧いとばかりの取り組みも始まっているだろう。

 

我々は、功を奏したものしか目にしないし、リリースされて初めて知るものが多いが、その中には種を撒かれたのが何十年も前というものがたくさんある。

 

何もかもスピードアップし、日進月歩という言葉ですら遅れた言葉に感じる今日此頃だが、もっとのんびり構えるくらいが丁度良いのかもしれない。

 

 

好かれることよりも、嫌われないことが大事

若者の献血離れという現象がずっと続いている。

 

これは11年前の記事。

 

若者の献血離れが深刻…原因も対策も分からず 2007/11/28

献血者全体に占める若年層の比率は、96年の43.1%から06年は25.1%となった。

全国平均の31%を下回る結果に、関係者らは将来への不安を募らせるが、

明確な要因が分からず、有効な対策もないのが現状だ。

 

 

これは山口県の県内事情を示す記事なのだが、山口県に限らず日本国内に共通する現象で、2018年の現在も若者の献血離れは続いている。

 

 

検索するとたくさん記事が出るが、ローカルの話題として取り上げられてるものが多い。

 

日本全体で見ると、

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各世代の人口差も関係してるだろうが、減少傾向は顕著だ。

 

 

かつて日本には売血という制度があったらしい。

 

売血(ばいけつ)とは、自らの血液を有償で採血させる行為のこと。日本では1950年代から1960年代半ばまで輸血用血液の大部分を民間血液銀行が供給していたが、その原料は売血で賄われていた。

 

現在血液がいくらで取引されてるかは医療関係者にしか提供されてないが、こんなブログがあった。

 

東日本大震災直後の頃に書かれたこのブログに血液の価格が書かれている。

 

この方は、この価格を安いと感じているようだが、世間はどう思うだろうか?

 

献血が減少する背景には、根強く残る赤十字不信があるというのは有名な話で、その不信の中身は、無償で提供させたものでぼったくっていると思わせるからだ。

 

輸血について、備忘録的粗めザックリ豆知識(^-^)

<費用>

赤血球の輸血は、約1万6千円。

血小板の輸血は、約7万8千円。

もちろん、この金額で「輸血し放題」ではありません(^-^)

400mL由来の280mL、スタンダードバージョンの金額。

 

http://d.hatena.ne.jp/cubictea/20110522/1305991208

 

 

〜〜余談〜〜

 

このブログを検索で見つけ輸血の値段を見て、やっぱりぼったくってんな〜と思ったが、このブログに書かれていることを読んでいると、この方がこの輸血価格を高いと思ってないということは一般人にはよくわからない血液管理の大変さがあることを知っているからだと分かる。

 

 

最初私はこのブログの方は医者なのかなと思ったが、悪性リンパ腫を患い闘病開始をきっかけにブログを始めたようで、全部を読んだわけではないが、その後抗癌剤治療に入られた様子だが、2017年6月17日以降の更新がない状態。

 

 

この方の文章には、詩的な薫りが漂っていて、押し付けがましくなく病気と向き合う気持ちが綴られている。

 

健康であることの有難みを忘れがちな方には是非目を通して欲しい。

 

 

ブログが更新されることを祈りたい。

 

〜〜余談終わり〜〜

 

 

献血を嫌がる理由として上がるもう一つの大きな理由が、感染だ。

 

現代人にとってはエイズへの恐怖以来ずっと続いている。

 

その他にも献血を巡っては様々な疑問や不信があるのだが、書きたいのは献血そのものの話ではなく、ここまでは前置き。

 

この25年位ずっと若者の献血離れと言われてるが、最近その理由が変化してるらしいという話がある。

 

最近のコミュニケーションの基本は、結果が見えることであり、すぐに反応することが大切で、結果がなかなか得られないや反応が遅いことは脈が無いと捉える傾向がある、俗に言う『即レス』だ。

 

この『即レス』は、コミュニケーションの相手が、"どこの誰"がわかっているから成立するので、"どこかの誰か"を相手に求めるコミュニケーションにはなりえない。

 

そして献血にもどうやら即レスを求める傾向があるらしいので、自分の提供した血液がせめてどこの誰の役に立ったのかがわからないと感謝も笑顔も向けてもらえず虚しく感じるらしい。

 

献血をする人の気持(動機)は、"どこかの誰かのために"、からシフトしてるかもしれない。

 

これがコミュニケーションの取り方に起因してるとすれば、現代だから起きてることになる、影響は若者に留まらなくなるだろう。

 

こういう小さな変化が、成り立たせていた仕組みを成り立たないものにさせていく。

 

類似したことは"寄付"や"募金"でも起きているだろう。

 

"どこの誰"のためになってるかが、はっきりしないものの多くが詐欺の対象になっていることも関係してるだろう。

 

 

しかし、この流れは新たな動きにもつながる。

 

つまり、"どこの誰"のためなのかがはっきりすれば、支えたいという動きを生み出すことになる。

 

"ふるさと納税"や"クラウドファンディング"などは、頑張る人を応援したいという気持ちがあるから成り立つし、応援した人が応援したという実感を得やすいだろう。

 

どちらも、応援後に応援相手とのコミュニケーションがあることも大きなポイントになるだろう。

 

 

こうやって考えると、社会のコミュニケーションが"義務や権利"を意識したものから、"感情"を大事にすることにシフトしてることが見えてくる。

 

"感情"が大事になると、好かれることよりも、嫌われないことが大切になる。

 

バカの壁

「運動はウォーキングで十分なのか?」という質問に各分野の専門家5人が回答するとこうなる

1:スポーツ科学者

いいえ

 

2:理学療法士

はい

 

3:作業療法士

はい

 

4:バイオメカニスト

はい

 

5:健康科学者

はい

 

 

詳しくはリンク先の記事を見て欲しいが、同じテーマでも、立場が変わると視点や気になる問題点が変わるので、その答えは幅広いものになる。

 

だから、安易に正解だけを求めようとすると間違いを犯すことになる。

 

養老孟司先生がその著書『バカの壁』で、答えを決めつけることや、話し合えばわかる、など一方的に思い込むことに普遍性を感じるのはバカのすることだと言っている。

 

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

 

 

 

テーマが"ウオーキング"であってもバカの壁は存在するようだ。

 

ちなみに、ウオーキングに関する私の意見はスポーツ科学者と同じで"いいえ"で、これは自分の経験からだ。

 

 

『バカの壁』は、読めば納得の話だが、そう思う多くの人が読む前からなんとなく気づいていた話でもあるだろう。

 

だから、表現は違うが、似たことはしばしば話題に上がる。

 

「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由
知られざる「文化と教育の地域格差」 2018/4/25

田舎者は、田舎に住んでいるというだけで、想像以上のハンディを背負わされている。

 

 

 

詳しくは本文を読んで欲しいが、これもバカの壁の話だと感じた。

 

ここでは、田舎と都会が対比されてるが、実際の意味は、"自分が知らないということに気付かない"、そんなことが田舎生活には多いと言いたいのだ。

 

だが、これはそっくり都会生活にも当てはまるのだ。

 

見えるものには気付くが、見えないものには気付かない。

 

 

気付いている人は、気付かない人に対して優越感を感じる。

 

気付かない人は、気付いてる人にコンプレックスを感じる。

 

 

検索すれば多くのことが調べられる、検索してもわからないことは他の人も知らないから、知ってることの有り難さが日常からどんどん薄らいでいく。

 

今の時代の恐ろしいところは、"知っている者"のコミュニティと"知らない者"のコミュニティが分断してしまうことだ。

 

つまり、"知らない者"は、ずっと知らないままの人生を歩む可能性が高くなる。

 

この"知ってる"、"知らない"のコミュニティの分断を生み出す元が、フィルターバブルでインターネットの普及が加速させたパーソナライズの結果だ。

 

各ユーザーが見たくないような情報を遮断する機能」(フィルター)のせいで、まるで「泡」(バブル)の中に包まれたように、自分が見たい情報しか見えなくなること。

 

私は、調べごとをする時に選択するキーワードの使い方に、自分で自分にガッカリすることがしばしばある。

 

言葉が自由に選べないもどかしさや発想の貧困さを感じる時に、自分のフィルターバブルを意識する。

 

ブログをやるようになって良かったと思うことの一つに、フィルターバブルを弱めることに役立っているのではないかと言う点がある。

 

自分らしさが一番大事だと思うが、独りよがりではありたくない、という思いがあることが役に立つ気がする。

 

会社で仕事のプレゼンをするような場合は、少し邪な欲を無視するわけにはいかなくなるので相手である顧客に巧みにフィルターバブルを掛けようとする心理が働くことがある。

 

ああ!、これが洗脳かと今頃ちょっと気付く。

 

 

自分は"知らない"ということを理解し、その"知らない"事をどうやったら知ることができるかを意識しておくことが、自分を守ることになるだろう。

 

バカの壁は全ての人にある。

 

人の噂やゴシップが大好きな日本人は、人事の話も大好きだが、そんな人事に関係する査定や評価を巡っても無数のバカの壁があるだろう。

 

衣笠祥雄さん、監督・コーチに1度も就任しなかった理由

「若気の過ち」も、株主として市民球団を支えるマツダに"遠慮"することもなく奔放に大型の米車・フォードを乗り回し、当時の豪快な主力選手にならって夜遊び、朝帰りも。成績も振るわずプロ野球人生を滑り落ちかけたのだが、何とか踏みとどまれたのは、当時のコーチ陣や球団スカウトのおかげだったという。

 

 

本人は指導者の道に進まなかった理由をあまり語ってないが、スポーツ紙の取材に差し障り無く「色んな人間関係がある」「世渡り上手や得意でない人もいる」「自分がどうこう出来るものではない」と説明していた。人事が人間関係に左右され、周囲の期待通りに進まないのは野球界も同じ。現在流行のフルスイングの先駆けでもあり、解説の仕事や少年野球などの熱心な指導を見れば、一度は指導者としてどのチームのユニホームでも着てほしかったが。

 

4月23日に71歳で亡くなった衣笠祥雄さんは4月19日のテレビ中継で解説者を務めたが、その時既に言いたいことを十分に話せる状態では無かった。

 

人事采配を振るうことを避けた衣笠さんには、立ち塞がるバカの壁があったとも言えるし、そんな判斷が別の新たなバカの壁ができることを防いだとも言える。

 

全ての人間に、どんな生き方をしようと、バカの壁が立ち塞がる。

 

どこを間違ったのか?

消費者にとって企業の理屈は関係ない、そんな消費者をどう捉えるかでビジネスが変わる。

 

消費者を味方につければ、広告やマーケティングに費用を投じなくても成功するビジネスがある。

 

「告知なしで20万人待ち」のアイスクリーム・ミュージアムを仕掛けた25歳。異次元レベルの集客力の鍵は?

告知なしで、異次元レベルの集客に成功しているミュージアムがある。

 

仕掛けるのは、25歳のクリエイター、マリーエリス・バン(Maryellis・Bunn)。「子どもの頃からアイスクリームが大好き。こんなのあったらいいなを叶えちゃいました!」「子どもも大人も、みんなアイスクリーム好きだもんね!」「みんなで一緒に楽しもう!」「アハハ!」。親しみやすさを前面に押し出している。というか、それしか出さない。これってマーケティングビジネスですよね?

 

 

すごいのは、トップクラスのセレブらがちゃんと足を運び、楽しんでいる様子をインスタグラムにポストしていることだ。その25歳の仕掛け人、マリーエリス・バンって何者?

 

「アイスクリームが好き」。こう表明して敵を作ることはないだろう。もちろん、ひねりがないだけに特別な印象を残すことにも繋がらないのだが、マイナスイメージにもならない。その、誰もが手放しに「好き」といえるリスクの低さもSNSとの相性バッチリ。

 

そんな新しいビジネスは、ターゲットとする顧客をミレニアル世代に想定しているが、その層は生まれたときからインターネットがあり身近にデジタルデバイスが当り前にある環境で育ったデジタルネイティブでもある。

 

運営サイドは、あくまでも「これは、LA育ちの彼女の子どもの頃の夢を叶える(ビジネスではなく)パッション・プロジェクト」であると貫く。毒にも薬にもならんがな。

 

デジタルネイティブの若者消費者層は広告宣伝に敏感で、何がそうであるかを瞬時に察知し、回避する—と言われている

 

 

その支持を取り付ければヒットすることは出来るが、その関係性はドライなので次の瞬間には消えてしまってもおかしくない、そんなシフトが一部で起きている。

 

若者に特有の行動のように取り上げられてるが、今の時代の"ノリ"と言っても良いかもしれない、だとすれば他の年齢層でも似たことは起きているかもしれない。

 

 

 

今流行り(本当に流行ってるかは疑問だが)のAIスピーカーは、"商品検索"のあり方を劇的に変化させるかもしれないと見られてる。

 

従来は、検索ワードを入力し、比較的上位に表示された中から選んでサイトに入り、気に入ったものがあれば注文し、気に入ったものがなければ別のサイトを探すが、この作業においては、検索の上位にヒットされるということが企業側にとって大事なこととなる。

 

これに対し、AIスピーカーで検索する場合、多くの場合検索のトップに表示されるものしか見てもらえないかもしれないし、そもそも検索作業をめんどくさいと思えば、ピンポイントで結果が出るような検索ワードしか用いられなくなるかもしれない。

 

ということを、マーケティングを重視してる人々は恐れているらしい。

 

考えてみると、AIスピーカーは主要プラットフォマーである、Google,Amazon、Appleなどが一斉にほぼ同時期に出したことをことを考えると、発想は家電ではなくコミュニケーションデバイスとして生まれてることは明らかだが、私には手を動かさずに検索するという"横着をするための家電"としか映らなかった。

 

検索という意味では、声だけでなく画像も大きな影響を与えるようになるだろう。

 

振り返ると、昔"勉強"と呼ばれていたことは、小難しい文字の羅列を読み解くことだったが、そこにわかりやすい写真や絵があるだけで理解の度合いが全然違ってくるし、同じことが漫画やアニメで表現されると、もはや勉強してるという意識もなく猛勉強したのと同じレベルに到達できる、そんな経験を持つ人も多いだろう。

 

しかし、理解が進む代わりに、想像力の出番が減ってくる。

 

知識はあるのに応用が効かないことにつながる。

 

その弊害は多様性に対応できなくなるという形で現れるだろう。

 

マーケティングを意識した世界では、基本は独占できることを目指すが、それを阻もうとするのが多様性だ。

 

だから、独占を阻む多様性を、時代に逆行しないように排除し、独占を目指そうと足掻いているように見える。

 

多様性を見せているのは、"プラットフォーム"であり、"コンテンツ"だ。

 

消費者には「道徳」とか「法律」で古臭いやり方を押し付けても、何も変わらない。

テクノロジーの進歩に伴い、世の中の利便性は格段に向上している。

なら、コンテンツの胴元は、この利便性を最大限に活用できる形で、消費者が気持ちよく払える金額を支払わせる事ができれば、それこそコンテンツクリエイターと消費者との間でWin-Winの関係が構築できるのである。

 

つまり、クールな集金システムを作る事ができさえすれば、もはや圧倒的に勝ちなのだ。

 

となると、次に起こるのは間違いなくコンテンツの囲い込みである。既に音楽はiTunesが、動画はネットフリックスやAmazonプライムが、書籍はKindleがコンテンツの囲い込みをほとんど確立させつつある。

 

ではまだ囲い込みがなされていない、未整備なコンテンツ分野はどこか。それをみつける事ができた時、あなたの元に無限の富がもたらされるかもしれない。

 

 

日本人でSNSでの仕掛けの第一人者と言われるのが"ナカヤマン"氏。

 

そのナカヤマン氏はこう言っている。

 

SNS戦略のトップランナー、ナカヤマン。が語る「インフルエンサー時代」の未来

 

良いコンテンツがあれば自然にSNS上やメディア上で拡散するものなのか?

ナカヤマン。:そこが難しいところで、単純にそうとは言えない。コンテンツを届ける「チャネル」は、テレビ、雑誌、イベント、ウェブ、SNSなど無数にある。マスチャネルというものはすで存在しない。だから、「どのチャネルを選ぶか」ではなく、「どうチャネルを組み合わせるか」という思考が必要。つまり「コンテンツ」と「チャネルの組合せ」が正しくないと良い結果は出ない。

 

インフルエンサーと言われる人々を取り巻く環境がどう変化するかという問いに対しこう答えている。

 

鍵となるのは「コンテンツ」。今後その傾向は急速に強くなっていくはずだ。

 

情報の入口が『検索』であり、その拡散が『SNS』という傾向は当分続きそうだが、検索のあり方は常に変化が模索されている、検索のあり方が変化すると、昨日まで魚が釣れていた場所に、今日は魚がいないということが起こるようになる。

 

魚がコンテンツならば、それを釣ったり獲ったりし、その後流通させるために必要なのが検索でありSNSに当たる。

 

ナカヤマン氏は、インフルエンサーの役割をミツバチに例えこう説明している。

 

クライアントが「インフルエンサー」に期待するのは、ユーザーとブランドをつなぐミツバチ的な存在だ。このたとえで言えば、目的は受粉だ。花粉の運び方はミツバチ各々の個性に任せるという感じだろう。

 

見落とされがちなのは、ミツバチの、文字情報ではなく。画像情報を運ぶ性質だ。この場合、受粉の確度は平均的には低い。実際「印象」くらいは生まれても「伝わる」ことは少ない。

 

だからこそ企画が必要で、その一列が「コンテンツ化」、画像情報にメッセージを包含させる仕組み作りだ。そういう意味で「語るべき要素」が無数にある「ラグジュアリーブランド」は「コンテンツ」形成がしやすく、これからさらに強くなる。

 

 

今流行の画像中心の情報発信は一目瞭然性という絶対的強みがあるように感じていたが、最先端を行く人の目にはそうは映ってなさそうで、画像単体ではコンテンツとして未完成だと感じてるようで、メッセージを語り添えることが重要だと感じてることが新鮮に感じられる。

 

冒頭のアイスクリーム・ミュージアムの話の中に、メッセージが広告宣伝として伝わると、それだけで拒否されるとあるように、最も重要なのはコンテンツだが、その見せ方や伝え方を間違うと結果は大違いになりそうだ。

 

おそらく、現在のところこの結果の大違いは、まだきちんと分析されず、運やタイミングの良し悪しで語られているだろう。

 

まだ24時間戦うつもりですか?

"メリハリをつける"という言葉がある。

 

おそらく「メリ」+「ハリ」なんだろうなということは誰もが感じてるだろう。

 

検索すると、

 

「メリハリをつける」の「メリハリ」って、どこから来た言葉?

「メリハリ」は、邦楽用語である「メリカリ」が転じた言葉だそうです。

「メリカリ」とは、 微調整して音を低めることを「減り(めり)」高めることを「上り・甲(かり)」と呼んでいた邦楽用語で、現代では、主に尺八などの管楽器で使われています。「減り(めり)」は「減り込む」など、一般的にも使われていた言葉ですが、「上り・甲(かり)」は邦楽以外で使われることがなかったため、一般的には代わりに「張り」を使って「減り張り(めりはり)」と言うようになり、「音声を緩るめることと張り上げること」を意味するようになったそうです。

 

"「メリ」⇔「ハリ」"と、対をなす言葉で、同種のものに、

 

強弱

 

高低

 

などが検索すると出て来る、"飴と鞭"なんていうのも出てくる

 

あまりにも当り前すぎて見過ごしがちになるが、これらの対をなす関係は、"同じ"事の上に生じる関係性の対であること。

 

違うものの上で、"対"を設定しても意味が無いかもしれない。

 

現代人は、仕事とプライベートを切り分けて考えることが増えているが、一部の人は仕事とプライベートを一体化させている。

 

良い悪いの話ではなく、同じように生きていても、正反対の価値観が生まれることがあるかもしれない。

 

「ストレスは害」と思う人は死亡率が高い

そう、ストレスは必ずしも悪者ではない、というのが現在の定説なのです。

 

ストレス(=緊張)は、単独で語られることが多いが、これも対をなすもので、反対はリラックス(=弛緩)だ。

 

ストレスが悪者になる時は、おそらく対をなすリラックスが不足してるはず。

 

もっと大事なことは、ストレスとリラックス(緊張と弛緩)は同じ舞台上に必要になるということ。

 

仕事で抱えたストレスを、プライベートのリラックスで解消しようとしても、根本的な解消にはならない、おそらく問題を先延ばしにするだけだ。

 

しかし、世の中は若干逆行気味に見える。

 

裁量労働制の話だ。

 

今年の国会での成立は見送られたが、その考え方が否定されたわけではなく、目先の選挙対策であり、人気を意識しただけだ。

 

その本質は、経営側は社員に緊張を強いることが生産性を高めることだと思っているようで、社員にリラックスを提供する気が無さそうであることには変わりがない。

 

欧米の本当の事情はよくわからないが、裁量労働制も日本流ガラパゴスになる予感がする。

 

 

限りなき欲と限りあるカラダの間で(想田和弘)

僕の場合は自営業者なので、本当の意味で「裁量労働制」である。仕事を入れるのも入れないのも、僕が僕自身の責任において決めることだ。だから僕のカラダが闘う相手は、僕のココロの中にある強欲だけである。

だが、会社に雇われて働く人たちはどうか?

 

仕事とプライベートの切り分けをする人としない人とでは、ストレスのあり方も、それを解消するためのリラックスのあり方も変わって当然だが、おそらく世間の多くの人はその区別をしていない。

 

仕事とプライベートの切り分けをする人の場合、仕事上のストレスは、本来は仕事上のリラックスと相殺関係にある、プライベートも同様だ。

 

しかし、ブラックなる言葉が広まった頃から、仕事のストレスをプライベートで"解消"するということが増えたような気がする。

 

しかし、この対処法では問題を解決するのではなく、先延ばしにする効果しか得られないだろう。

 

高野山僧侶の労災認定 宿坊の連続勤務でうつ病  2018/4/7

代理人弁護士は「修行であって労働ではないとされてきた僧侶の仕事が、労働と認められたという点で意味のある認定だ」と評価。

 

寺院側の代理人弁護士は「コメントできない」としている。

 

このニュースを知って考えたことは、現代人がさも当然だと考える"仕事とプライベートの切り分け"ということは実際には可能なのだろうか?、ということだ。

 

すごく不自然なことをしようとしてるのかもしれない。

 

そう考えると、"仕事とプライベートの切り分け"という作業自体がストレスを作っているかもしれない。

 

このストレスは、どこで解消すれば良いのだろうか?

 

 

"仕事とプライベートの切り分け"と言うのは、かなり無理がある。

 

仕事とプライベートを分けるという考え方が生まれたのはいつ頃かを調べようと色々検索するがなかなかズバリがわからない中でこんなことを思い出した。

 

24時間戦えますか? 栄養ドリンクの30年

平成に元号が変わった翌年の7月、あの「24時間戦えますか?」の曲を使ったテレビCMの放送が始まると、商品の認知度が急上昇。時任三郎さんがふんする白いスーツのビジネスマンがさっそうと海外出張に飛び立つCMはお茶の間の話題となり、CMソングを収録したCDは60万枚を売り上げました。キャッチフレーズは流行語大賞の銅賞にも選ばれ、バブルを象徴する商品になりました。

 

リゲインのキャッチフレーズも平成3年には「24時間、戦うあなたに」に変更。

CMでは、佐藤浩市さん演じるビジネスマンが居眠りをしているうちに駅を乗り過ごして大慌てという場面が描かれています。企業のリストラや破綻が相次ぐ中、ビジネスマンが先の見えない「疲労感」と戦う時代になっていたということなのでしょうか。

 

 

リポビタンDといえば、筋骨隆々のイケメン俳優が「ファイト一発!」と叫ぶテレビCMが印象的ですよね。

 

しかし、今、筋骨隆々の男たちは姿を消し、かわりにプロのスポーツ選手や人気のユーチューバーが登場します。「Have a Dream」というコンセプトのもと、爽やかなイメージに一新し、栄養ドリンクを敬遠している若い世代にも浸透させようとしているのです。

 

 

栄養ドリンクというジャンルは、もともと海外にはなく、日本のメーカーが生み出し、市場をつくりあげたものともいわれます。しかし、今、若い世代の人たちの人気は、海外メーカーの「レッドブル」に代表されるエナジードリンクと呼ばれる飲料に流れているといいます。

 

 

 

栄養ドリンクのCMの変遷は、日本の現状をわかりやすく説明してることに気付く。

 

そして、もう一つ気付くのは、日本という国は、未だにバブル景気の時代を追い求めてるんだろうなということ。

 

これまで似たような話をフジテレビの凋落ぶりを語る時に目や耳にしたが、今ひとつピンとこなかった。

 

仕事とプライベートの切り分けという考え方は、あまりにも多くの時間を仕事(=会社)に拘束されてるからこそ生まれた発想だろう。

 

長時間労働が、うつ病や自殺の原因になることを知っている現代人が長時間労働を受け入れるのは、そこにしがみつくしかないという閉塞感も大きく関係しているだろう。

 

『赤信号皆で渡れば怖くない』の心境だろう。

 

 

しかし、どうせ赤信号を渡るんだったら、嫌なものに「NO」を突きつける方が精神衛生上良いと思うが、そういう人はまだ少数派なのは今が過渡期だからだろう。

 

まだ24時間戦うつもりですか?

『関係』の変化!

人間がペットを飼う理由は、人間が群れる生き物であることが関係し、希薄になった人間関係を補う行為として、という説があるらしい。

 

群れで生活する生き物に狼がいる。

 

統率された行動で巧みに狩を展開する賢い動物として知られてる。

 

群れに属しているとエサにはありつけるが、群れの成員全てが満足できるエサの量があるわけではない。

 

群れの中には厳格な序列があるが、その序列の争いは激しく、争いに負けると序列が下がるか、群れを追い出される。

 

群れを追い出されることは、狩ができなくなることを意味するので、多くの場合死を意味する。

 

そんな追い出された狼が、俗に言う一匹狼だ。

 

 

一匹狼は、独自に生きる術を見つけるか、別の群れに合流し最下層からスタートするかしかない。

 

何と人間社会と似てることかと感じる。

 

しかし、一匹狼の一部が人間社会に歩み寄った。

 

狼の生態を知ってる人間は、一匹狼が群れの狼とは違うことを知っているので、そんな狼を受け入れる。

 

人間からエサをもらう代わりに、人間のために働く、そんな関係が出来上がる。

 

そんな狼が長い時間を掛け、やがて犬になって行くが、野犬や狂犬が大幅に減った現在では、人間と犬は表面的には非常に友好的だ。

 

人間と犬は友好的であっても、基本は主従関係だ。

 

群れで生きてきた人間が、核家族化で分散し、終身雇用制の消滅化の加速などで、群れのルールやしきたりが減り、個人の自由が尊重されるようになり、人間関係が希薄になると、一匹狼が人間にすり寄ったように、人間がペットにすり寄り出してきた。

 

心に隙間が増えた現代人がペットを飼う理由の第1位が『癒し』であることは、群れ型の生き物にとっては”関係”が大事であるということだろう。

 

 

ところで、“癒し”と言う言葉は一種の流行り言葉のような気がするが、流行り言葉だとするといつ頃からだろうか?

 

Wikipediaによると1999年に“癒し系”と言う言葉が生まれたようだが、こういう説明がなされている。

 

人間には心身ともに癒し要素を持つものが本質的には受け入れられる。特に心身にストレスがたまっている場合などは過激さは不適切である。バブル時代は白熱した刺激が好まれる傾向もあったが、バブル崩壊後、社会が不安になってくると過激な刺激はよどみ嫌われた。元々、過激さには人体危険が伴うのが常であり、それを求める傾向は一種の自虐行動である。心理学的に人間が本質的に求めているのは安らぎと平穏であり、もともと人間は攻撃的な要素を好まない。もしくは極力避けることで自己防衛を図る生き物なので、癒しを求めることを攻撃的要素を避ける意味でも非常に大きな意味を持つと本能的に知っている故の現象である。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/癒し

 

 

では、“癒し”の反対語は何だろうか?

 

検索すると、“傷心”や“不快”や“病む”や“患う”などが出てくるが、ズバリは無さそう。

 

最近の世間の動きを見ていると、私には"癒やし"の反対語と"ハラスメント"が密接に関連してるように思えてくる。

 

ハラスメントを生み出す心理の背後には、"もっともっと"と求める気持ちがある。

 

"もっともっと"がストレートに出る場合と、歪んだ形で出る場合がある。

 

ハラスメントを行ってる加害者側の人物も、自分が何に衝き動かされてハラスメントしてるかよくわからず、自己嫌悪を感じながらハラスメントを行っているかもしれない。

 

そうだとすると、加害者VS被害者ではなく、全員被害者とも言える。

 

被害の背後にあるのは"関係"ではないだろうか。

 

 

 

 

間違っているとかではなく、飽和状態になり成り立たなくなっているような関係性がある。

 

湿度が100%になると、それ以上水蒸気は発生しない。

 

更に水蒸気を留めたければ、気温を上げるしかない。

 

もっともっとを求めることは、気温をどんどん上げ、一定水準を超えるとどんどん不快指数が高まるだけだ。

 

そんな時は、やり方はともかく湿度と気温を適度に保つ必要がある。

 

とりあえずは、上がりすぎた気温と湿度をどちらも下げなければいけない、ただし下げ過ぎは禁物だ。

 

参考:湿度100%はあり得る?―湿度のメカニズムとは―

 

 

要が"関係"にあるような気がする。

 

【佐々木俊尚】現代を生きるコツは「広く弱くつながること」

個の力を磨いて自分のブランドを高める、というのはあまり現実的ではないと思います。そんなことができる優秀なスーパーマンみたいな人は、そう多くないでしょう。

 

 

専門分野はないよりあったほうがいいけれども、完全に寄りかかってしまうのは危険ですよね。

 

仕事の入り口は、スキルではなく人間関係がほとんどです。

 

僕は友だちに見返りを求めません。気の合う仲間と良い関係を築くには無償の善意みたいなものが必要で「君は良い人だから、イベントに付き合うよ」という感覚ですね。

 

新しい人間関係を作るうえで避けるようにしているのは、悪口を言う人、自慢ばかりする人、説教の多い人、物事を損得で考える人、業界内の話しかしない人、会話がキャッチボールにならない人、攻撃的な人です。

 

 

「いかに得するか」というあざとさを捨てなくてはいけません。

例えば、この人とつながったら得しそうだなという考え方はあざといし、その計算は相手に伝わりますよ。

仕事をしていかなきゃならない、生活していかなきゃならないので、人生の戦略はすごく大事ですが、そこで人を利用しようと考えるのではなくて、一緒にうまくやっていきましょうというスタンスです。

 

印象に残るフレーズを選んでみたが、どれも小学生以下の子供時代には当り前だったようなものばかりだ。

 

大人になると、子供時代の気持ちが持続しないのは、本音と建前が存在するようになるからで、本音と建前が存在するようになるのは、それだけ生きることが困難だからだろう。

 

しかし、おそらく本音だけの時代になっていくのだろう。

 

現在はその過渡期で、本音にも格差がある。

 

自分自身の本音を再確認し、行動をシフトさせる時期にきている。

 

これも生態系(エコシステム)の変化で、適者生存の動きだろう。