事件が起きると、その現場には被害者と加害者が生まれる。
法律を前提とした司法の場は加害者を裁く機能を優先させ、被害者の救済は後回し気味だ。
被害者とも加害者とも赤の他人であるほとんどの世間は、事件に自分の感情で反応する。
世間は、被害者あるいは加害者のより感情移入できる側の立場に立ちがちな発言をする。
一歩間違うと自分自身が被害者あるいは加害者になり得るという思いや、自分はどちら側にもまったく無縁な生き方をしてると思いながら。
なぜそんな事件が起きたのかを単純な因果関係でまとめようとする見方もあれば、被害者と加害者の人生が交錯せざるを得なかったストーリーを事件が起きるはるか前からのお互いの生き方まで想像を巡らせながら見ようとする見方もある。
どんな見方をしても大した違いのない結論に至るとしても、考え方や感じ方のアプローチが違うと受ける印象には大きな違いが生じることがある。
歴史や世間は戦争を正義と悪の戦いにまとめがちだが、実際には正義と正義のぶつかり合いだ。
被害者と加害者が同時に生まれる場には、きっとたくさんの都合の良い正義がある。
わたしが事件の当事者になればきっと被害者であれ加害者であれ都合の良い正義を主張するだろう、そして相手もまた都合の良い正義を主張するはず。
つくづく思うのは、被害者にも加害者にもなってはいけないということだ。
君子危うきに近寄らず、この場合の『危うき』は人なのだ、あるいは他人を巻き込む恐れのある状況だ。
自分が単独で行うチャレンジや冒険で、被害が出るとしてもそれは自分だけで他人を被害に巻き込まないような場合とは別な気がする。
言うまでもないのは救助に向かう人が仕事として救助するような場合は巻き込まれた被害者ではない、もし救助のプロセスで何かあった場合は別の意味での犠牲者だ。
都合の良い正義と書きながら思い出していたのは不都合な真実。
正義にしても真実にしても人間の都合なのだ。