タレントの生田斗真さんが『無痛分娩』発言で評判を落としている、過去にはもっと酷いこともあったと話題になっていた。
生田斗真さんに関して、名前は知っていたがどんな活動をしてるのかはまったく知らないわたしが、初めて認識した活動だ。
およそ彼自身の活動としては例外的なものかもしれないが、よほどの善行が連続して話題にならない限りわたしの中では評価は下がったままだろう。
生田斗真さんの件は今日の話題から一例を上げただけ。
いったい芸能人は何人いるのだろうか?
よほどの大御所や人気者以外は、有名であっても差別化できずにいるはずだ。
良い話題や好ましい話題では火がつかないが、ネガティブな話題では盛大に火がつく、それはそもそも何もかもが差がない時代だからかもしれない。
炎上と呼ばれる行為やTwitterがバカッターと呼ばれ始めた頃にはすでに良い意味での差別化が行き詰まっていたのだ。
それでも差別化でしか活路は開けないという思い込みの呪縛が強いので、いつしか差別化はイコール悪目立ちと同じ意味も持ち始めた。
悪目立ちであっても名前や商品を覚えてもらうことは、差がない時代では武器になるのだ。
しかし、大多数の一般の人にとっては悪目立ちはストレスの方が大きい。
昔と違い現代は忖度も悪目立ちの様相を呈してる。
昨日の水俣病の患者に対する環境大臣や環境省の職員の態度の悪目立ちっぷりは、国にとっては逆効果だったが、水俣病の被害者にとっては世間に埋もれるはずだったニュースが全国ニュースやワイドショーで取り上げられることで埋もれずに済んだとも言えるので朗報でもあるはず。
良くも悪くも差別化が困難な時代なのだ。
知ってもらわなければ始まらない、覚えてもらわなければ始まらない、そんな競争はますます激しくなっている。
情報化時代では、知ってもらう覚えてもらうは差別化とセットでなければ機能しない。
知ってもらう覚えてもらうだけではダメだというのは結構辛いのだ。