儲かるの『儲』を分解すると『信』+『者』、つまり信者となるというのは有名な話。
転じて、儲かりたければ信者を集めろ、信者が儲けさせてくれると解釈される。
そこで野心あふれる者は教祖になりたがり、ズル賢い者は教祖の下で幹部になりたがる。
この理屈で行くと信者とは働き蜂や働き蟻と同じで、別の表現をするとカモや奴隷になる。
信じる者は救われると言われる信者だが、残念ことに信者が救われたり儲かったという話はあまり聞かない。
さて、時代とともに教祖も変化する、場合によっては主客転倒もある。
教祖はなるものではなく、仕立て上げられるものなのかもしれない、議員や大臣のように。
一見トップに見える教祖は実は単なる中間管理職かもしれない。
なったから偉いわけではなく、たかりにくる信者を喜ばせる必要がある、儲けさせてくれる見返りに信者は教祖を煽てるという関係性にシフトする。
フランチャイズのオーナーと本部の関係によく似てる。
フランチャイズのオーナーはお金を払って契約することでその地位を手に入れるが、現代の教祖は広い意味での人を魅了するカリスマ性を備えることでもその地位を手に入れる。
ざっくばらんに言うと人たらしだ。
有名でかつ人たらしであれば世間が勝手に煽ててくれる。
世間は、自分に得がありそうな教祖ぶってる獲物を探してる。
教祖と信者の関係は、寄生される者と寄生する者の関係性で、信頼や愛情は希薄。
最近聞くようになったインプレゾンビなんて、自分が誰に反応してるのかあるいは何に反応してるのかすら理解してないのかもしれない。
つまり、教祖と信者の関係に照らし合わせると、本来は師弟関係や信頼関係、時には利害関係も生じるのだが、何の関係性もないのにおこぼれを期待できそうな人物を教祖に見立てて絡んで行くのだ。
そういう意味でいうと可哀想に見せるというのも人たらしの能力の一つになる、母性本能をくすぐられるも考えものだ。
募金のように困ってる人を助けたいと思う気持ちを悪用する人は少なくない。
ここまでで捉えた関係性の場合ギブアンドテイクの関係性は一方通行になりがちで、ギブする人はギブだけで、テイク側の人はテイクだけ。
上記で信者と書いた部分はファン(推し)に置き換え可能だが、その場合はギブアンドテイクが成立してる。
信者と呼ぶと生活や人生のすべてを捧げてるようなイメージがあるが、もっと軽い感じでプロ野球を例にすると、何のファンなのかは複数ありうる。
野球そのもののファン、チームのファン、特定の選手のファン、チームや選手に関係なくプレーそのもののファンあるいはファン同士の交流が目的だったりなど一つにまとまるものではないが、心の満足や喜びは双方向性が感じられる。
幸せな人はファンや推しになることはあっても信者になることはなさそう。