違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

「読モ化する時代」をどう生きるか

ライターが“読モ”化している件について

Web上で活躍するライターや編集者、ディレクターなどといった人たちの区別がつきにくい問題も、これで解決できる。ようは、みんな自分自身を商品として売る「読モ」なのである。

 

半年前の2月上旬に出た記事でなんとなく面白いと思って保存していたが、今日何気なく読んで改めて面白いと思った。

 

この当時は、コピペで記事を粗製乱造するライターやそんなライターをつくりだす業界体質が非難されていた時期で、PV(ページビュー)を稼ぐことに躍起になる姿を改めなければと議論がされていた。

 

2月当時面白いと感じた理由は、末端の動きをシンプルに表現できてるのではと感じたからだ。

 

しかし、それ以上のものではないと感じてもいたので保存する時にリンク先を残してなかった。

 

だから今回改めて”ライターが読モ化してる件”で検索してみた。

 

そうすると当時結構話題になっていたことが見えてきて、この記事に対してブログを書く人もいたし、いろいろな意見が出ていたことがわかる。

 

多くの意見が否定的で小馬鹿にしたような調子が感じられた。

 

下記サイトのコメントにはそんな意見がたくさんある。

 

https://newspicks.com/news/2051292/

 

 

半年経過して改めて読んで面白く感じた点は、末端で起きてる現象だと思っていたが中心部にも波及しているんじゃないかと感じた点だ。

 

ついでに言うと、PV(ページビュー)に替わる価値も見つけられそうになさそうだし。

 

中心に波及してるというのは、既に実績もあり一定の評価が得られてる作家や評論家や学者や研究者や会社経営者(社長が有名人)は、「読モ化」してるのではないだろうか、それもかなり前からという意味だ。

 

ただその現象をうまく表現することばが無かっただけではないだろうか。

 

だとすれば、末端で起きたことが中心に波及したのではなく、中心で起きてたことが末端に及びだしたということではないだろうか。

 

 

まず、「読モ」としてのライターには、なによりもタレント性が求められる。顔出しはもちろんのこと、プライベートな情報も重要な「商品」になる。

 

これってマスコミ的に露出度の高い人はほぼ当てはまる。

 

さらに、「読モ」としてのライターにとっては、交友関係も「商品」になる。それらは主にSNSによって可視化され、お互いがお互いに言及し合うことによって、自分たちの価値を高める。

 

新しい作品や成果の発表を求められる人にとって、未発表期間はツライ時間だろう。

 

SNSはそんな間を保たせるためにはもってこいだ。

 

元気な自分をアピールできる。

 

そして、実際に優秀な読者は、彼らによってフックアップされることもある。彼らの「商品」の一つである交友関係に組み込まれ、また新たな「彼ら」を再生産するシステムの一員に格上げされる。まさに、「読者モデル」である。

 

 

「儲」=「信」+「者」

 

というオーソドックスなビジネスモデルを踏襲できてる。

 

 

 

こう書きながら疑問に思うことがある。

 

この「読モ化」は、仕掛けられたものなのか、自然発生なのかということだ。

 

仕掛けられたとすればコンサルかなと思うが、ピンとくるコンサルが一人だけ浮かぶ。

 

正確にはコンサルではないが、人に刺激を与えるのが好きな人だ。

 

藤原和博氏が教える「100万分の1の人材」になるために今すべきこととは?

www.youtube.com

 

藤原さんが仕掛け人という意味ではなく、藤原さんが主張するエッセンスを現代流にアレンジしたら「読モ化」にたどり着いてもおかしくないなと感じただけ。

 

 

 

「読モ」ということばで括られると、ちょっとかわいい素人というイメージになる。

 

だから、著者も淘汰される存在と見てるようだ。

 

筆者が思うのは、おそらく現在、多くの人が「ライター」としてイメージするのは「読モ」としてのライターなんだけど、彼らが物書きとしての「本流」になることはないということだ。

 

これから先の21世紀を語る識者は誰もが生き抜くためには、「専門性を高め、質を高める必要がある」と言う。

 

もちろんそうだろうなと思うが、入り口がかわいく見えないものが、どんなに専門性を高めても、質を高めても相手にされないような気がする。

 

入り口がかわいいから入ってくれる。

 

入ったら、専門性もあり、質も高かった、こういうものや人しか残れないということかもしれない。

 

専門性を高めて、質を高めると、たいていの場合入り口はかわいく見えない、かわいいから最も遠い存在になるだろう。

 

だから、かわいいだけで中身が無いものに負けてぼやいてる人が多いのだろう。

 

さて、これからどうしようかな。