たまにYouTubeで昔のドラマ(わたしの場合1980年代が多い)などを見ると、ビデオで録ったものを無編集でアップしてるので当時のCMもそのまま流れるものがある。
昔からCMは邪魔者扱いされていたが、今見るとなかなか新鮮に感じるし、ストレートに商品の魅力を伝えようとしてるところに好感すら感じられる、商品の魅力は自画自賛に過ぎないことは分かりきってるのに。
懐かしさも影響してるだろうが、今のCMと無意識のうちに比較してるから感じるのだろう。
なんというか、現代のCMとの違いは醸し出す雰囲気やニュアンスの違いというよりも、狙いや意図そのものが変質してるからこその違いに感じられる。
昔のCMは、知らない人に知ってもらうためのもので、見てる人の自発的な意識を直接掻き立てるように作られていたように思えるのに対し、最近は狙いや意図がストレートなものではなくなり、見た人の意識を間接的に刺激するように作られてるように感じる。
つまり、いわゆる空気を刺激しようとしてるように感じられる。
表舞台は、空気を刺激するという曖昧さで演出されているが、このような場合、セットで裏の舞台も準備されてるらしいと感じられる。
大村知事リコール運動で中日新聞が佐賀でバイト募集のうえ“不正署名”が組織的に行われたと報道。既に高須院長、選管双方が刑事告発。明らかにバレる事を前提にした行為だけに「真相を究明したい。当局の捜査に何でも協力する」と高須院長。何としても真相解明をして頂きたい。https://t.co/EVqUho4gZF
— 門田隆将 (@KadotaRyusho) 2021年2月16日
表で伝えられる情報は、意図的に捏造されたデータに基づいていることを疑う必要があるのだ。
こういう書き方をすると、俺って最近の陰謀論の信者みたいなこと言ってるんじゃないかとちょっと気になるが、この疑いはリスクマネージメントの一環としてのものだ。
ニュースサイトを見てると誰でも感じてることの一つにコタツ記事があまりにも多いことがある。
主に、Webライターの副業やジャーナリスト、ライター志望の人間が文章の書き方を学ぶトレーニングの一環として執筆する場合がある。記事の配信元の編集者から、文字数が1500文字で引用先のSNSアカウント迄指定して発注される。それを元にライターが指定先のSNS投稿とSNS内のネットユーザーの反応を閲覧して記事を執筆する。
また、見出しについては週刊誌、写真週刊誌、タブロイド紙が編集する記事と同じ様な煽る見出しを思慮し、見出しを言い切らず文末をボカすネーミングを行っている。
まあ、私のこのブログもコタツ記事のようなものなのだが、興味や関心があることを独断で書いていて、誰の紐付きでもない点が最大の違いだろう。
コタツ記事もピンからキリまであるが、 底辺の裾野の拡大が著しいように感じるとともに、コタツ記事のライターはおれおれ詐欺系の受け子や出し子のような使い捨てにされる末端で、末端をどんなに刈り取ってもその上には手が届かないという構造との相似性に気づく。
喜んでやってる人もいれば、仕方なく嫌々やってる人もいるだろう。
西野亮廣さん「さすがに気になったので…」プペルの感想記事を報酬19円で募集という記事に苦言
西野さんや吉本興業が募集したわけでもない、ある映画サイトが「プペル」以外の作品でも募集を行っている案件で、あたかも自分と関連づけ「闇」といったような表現を使って報じるのはどうか、といったような疑問を呈していた次第である。
上記のツイートの件では、事件の展開に関してのキーワードになるのが、次のような流れであり構造だ。
名古屋市の広告関連会社の下請け会社が、大手人材紹介会社を通じてアルバイトを募集。佐賀市内の貸会議室で書き写させていた。
短い文の中に登場人物が4者いるのだ。
- 名古屋市の広告関連会社
- 1の下請け会社
- 2から依頼を受けた大手人材紹介会社
- アルバイト
事件が表面化する場合は、アルバイトの部分でだ。
この構造の場合、見えてないのが名古屋市の広告関連会社の関与と依頼の大元との関係だが、ここに空気が介入してる可能性が高い、いわゆる忖度だ。
忖度が成立するのは、利益の配分があることが前提だ。
配分される利益には直接だけでなく間接もあるので、この件で動いたからといって、この件の報酬が払われるわけではないとすれば手繰りようがないかもしれない。
曖昧さを支える名目には、コンサルタント契約や顧問という関係性が使われることが多い。
人と人が最も強力に結びつくのは、愛や信頼を拠り所にする場合ではなく共犯関係だと言われる。
大人の理屈であり、大人の事情で、子供だったらそうはならないはず。
身の回りにいませんか?
実際には良くないことを知ってるのに、『これ良いよ〜』と勧めてくる人。
たぶん、ただの嘘つきなだけではないだろうと思えてくる。
これはこれでたぶん空気のせいなのだと思えてくる。
最近の空気は、主従関係だけでなく、共犯関係も求めて漂っているように感じられる。