違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

死語になる『嗜(たしな)む』ということ

2007年に70歳で亡くなった阿久悠を取り上げる番組やドラマが2017年にはいくつかあった。おそらく過ぎ去った昭和を懐かしむ意図が大きかったのだろうが、どうせだったら何か新しい発見でもあればおもしろいと思い振り返ってみる。

 

 

24時間テレビ ドラマスペシャル「時代を作った男 阿久悠物語」 2017.08.26

 

【金スマ】作詞家・阿久悠のプロデュース戦略に中居正広も感嘆  2017/11/25

 

いきものがかり水野良樹の阿久悠をめぐる対話  NHK 2017年12月13日

 

私は上記に上げた番組の最後のものだけを途中から見たが、その中で阿久悠には 作詞家憲法15条というものがあると言っていた。

 

1970年台の歌謡界をリードしたのが阿久悠だと言われるが、阿久悠が提唱した15条には、同じ時期に高度成長を成し遂げた経済面とのリンクがあるはずだと思えるので、その15条を見てみると。

 

 

1.美空ひばりによって完成したと思える流行歌の本道と、

違う道はないものであろうか。

 

2.日本人の情念、あるいは精神性は

「怨」と「自虐」だけなのだろうか。

 

3.そろそろ都市型の生活の中での人間関係に

目を向けてもいいのではないか。

 

4.それは同時に歌的世界と歌的人間像との決別を

意味することにならないか。

 

5.個人と個人の実にささやかな出来事を描きながら、

同時に社会へのメッセージとすることは不可能か。

 

6.「女」として描かれている流行歌を

「女性」に書きかえられないか。

 

7.電信の整備、交通の発達、自動車社会、

住宅の洋風化、食生活の変化、生活様式の近代化と、

情緒はどういう関わりを持つだろうか。

 

8.人間の表情、しぐさ、習癖は不変であろうか。

時代によって全くしなくなったものもあるのではないか。

 

9.歌手をかたりべの役から

ドラマの主人公に役変えすることも必要ではないか。

 

10.それは歌手のアップですべてが表現されるのではなく、

歌手もまた大きな空間の中に入れ込む手法で、

そこまでのイメージを要求していいのではないか

 

11.「どうせ」と「しょせん」を排しても、

歌は成立するのではないか。

 

12.七・五調の他にも、音的快感を感じさせる言葉数が

あるのではなかろうか。

 

13.歌にならないものは何もない。たとえば一篇の小説、

一本の映画、一回の演説、一周の遊園地、これと同じ

ボリュームを四分間に盛ることも可能ではないか。

 

14.時代というものは、見えるようで見えない。

しかし時代に正対していると、その時代特有のものが

何であるか見えるのではなかろうか。

 

15.歌は時代とのキャッチボール。

時代の飢餓感に命中することがヒットではなかろうか。

 

http://p.booklog.jp/book/17226/page/211153

 

 

 

新しい価値を生み出すために、既存の価値に疑問の目を向けるという作業が行われてることに気付く。

 

現代人からすると、すごくわかりやすい問題提起を自らに課しているだけで、目新しさを全く感じないくらいだが、当時このアプローチは最先端で他の作詞家と一線を画していたのだ。

 

その当時の日本経済界は重厚長大型の財閥系企業がリードする中で、軽薄短小型のサービス業が広まり始めていたころでもある。

 

歌謡界も経済界も、既存勢力に隣接する分野に活路が見出だせていたのだ。

 

そんなわかりやすい70年代の終わりに歌謡界には一つの革命が起きている。

 

サザン・オールスターズの桑田佳祐の登場だ。

 

デビュー曲「勝手にシンドバッド」は阿久悠への挑戦でありパロディだったことは知られてる話だ。

 

78年にサザンオールスターズが、『勝手にシンドバッド』という曲でデビューしているんですね。これは、阿久悠の手がけた2つのヒット曲――沢田研二『勝手にしやがれ』という77年のレコード大賞を取った曲と、77年のピンク・レディー『渚のシンドバッド』という曲――を無意味につなげたものでした。『勝手にシンドバッド』なんて何のことやらわからないタイトルですが、当時の人にとっては「阿久悠作品のパロディだな」とピンと来るものでした。

『1979年の歌謡曲』著者が語る、作詞家・阿久悠とサザンの「ある因縁」とは

 

 

桑田佳祐が目指したのは、表意文字である日本語の表音文字化であったと言われる。

 

洋楽のラップのようなものを日本語で行おうとしていたと言われる。

 

日本語とラップは相性が悪いと言われる一方で、俳句や川柳など韻を踏むという音遊びの文化が古来日本語にはあることを思い出すと、その後の音楽シーンで日本語ラップがジャンルとして成立したのは新しいというよりも温故知新を感じる。

 

音楽のことを語っているが私は音楽に詳しいわけではない、そんな私の目には、桑田佳祐以降の著名作詞家としては秋元康の名が上がるのかもしれないが、彼の手腕はむしろプロデュース業がメインで作詞はおまけという感じを受け、アプローチの手法としては阿久悠的なのだが、阿久悠が感じさせた試行錯誤に向かい合う真剣さは感じない。

 

 

 

その昔、音楽を聞くことは音楽鑑賞と言われ”たしなみごと”と位置づけられていた。

 

音楽をたしなむという言い方をした場合、一般的には楽器の演奏をイメージするだろうが、音楽を聞くという行為も、演奏するのと同じたしなみごとであったのだ。

 

音楽をレコードで聞いていた頃は、社会人になる前だったからかもしれないが、まさにたしなむという言葉がふさわしい感じがあった。

 

レコード針がレコード盤に乗る瞬間には緊張感があったし、ちょっとした振動でレコード針が飛ぶので、静かに聞くというのはお約束事だった。

 

「お酒を少々たしなみます」なんて言い方があるが、たしなむという言葉には、その行動と表裏一体でマナーが存在していたことを思い出させてくれる。

 

いつの頃からか、たしなみごとの多くが、趣味や娯楽と言われるようになり、自分のルールで楽しんで良いと解釈されている。

 

その事自体が特に悪いわけではないだろうが、結果的に世の中はそれに連れて変化して行く。

 

たしな・む 【嗜む】

① 

芸事などを習って身につける。

② 

好んで親しむ。好んで熱心にする。

③ 

自分のおこないに気をつける。つつしむ。

④ 

ふだんから心がけておく。用意しておく。

⑤ 

きちんとした身なりをする。

https://www.weblio.jp/content/嗜む

 

 

おそらく、現代ではたしなむということばは本来の意味では使われていないだろう。

 

阿久悠が活躍していた時代に想いを馳せると、”たしなむ”ということばが死語になりつつあることを感じる。