オーケストラや吹奏楽、身近なところでは合唱などには指揮者がいる。
わたしには、指揮者という存在が今ひとつピンとこない。
それは音楽的な才能が全く無いからだろうが、指揮者の指揮棒が各楽器に指示を出しているとはとても思えないからだ。
実際のオーケストラの演奏を見ても、指揮者はただの指揮棒振りというパフォーマンスを演じてるだけで、演奏をリードしてるとはとても思えないのだ。
もちろん、音楽を真に理解できてる方からすると私の言ってることの方がおかしいことは十分に分かっているが、私のような見方をすると、指揮者が殊更に高く評価されるのが不思議でしょうがなくなる。
心の中では、指揮者なんかいなくてもオーケストラに参加している一人一人が楽譜をマスターしてれば全く問題ないと思えてしまうのだ。
ウィキペディアの指揮者には、こう書いてある。
クラシック音楽において、指揮者は不可欠な存在ではない。指揮者の急病や負傷で、あるいは指揮者が亡くなった際の追悼のために、指揮者なしで管弦楽曲が演奏されることもある。
しかしながら、指揮者の存在を楽譜に明示し、彼に音楽をまとめること以外の役割を与える作品も登場している。例えば、指揮者の身振りに何らかの指示を与えたり、指揮者自身が発声、ないしは楽器を鳴らすといったことである。
指揮者という存在が過大評価される時、演奏者達は楽譜以上のことはできないはずなのに、指揮者に全てを支配される存在のように思われてる気がする。
最近では、そんな指揮者のイメージと本の編集者のイメージに共通点があるように感じられることがある。
カリスマ編集者と持ち上げられる人種が出現し、その多くが自己啓発書を手掛けるところに偽物感がプンプン漂う!
もちろん、指揮者に許されているのはあくまでも楽譜の「解釈」なのであって、彼に楽譜以上の指揮はできないように、編集者も原稿以上の指摘はできない。しかし名指揮者が指揮する音楽がすばらしいように、名編集者が編集する原稿もやはりすばらしくなるのである。ちょっとした魔法がそこには存在する。
— 太田克史 (@FAUST_editor_J) February 10, 2010
指揮者と編集者には共通点がある。
指揮者は、なぜ演奏家にならなかったのだろうか?
編集者は、なぜ作家にならなかったのだろうか?
指揮が変わると音が変わると言われた時代は確かにあったが、それは演奏家がバラバラな存在だった時の話ではないのかという気がする。
過大評価される指揮者や編集者を見たり聞いたりするたびに思い出すのが「砂金堀り」の話。
19世紀半ばのカリフォルニアでのゴールドラッシュの時代に、砂金目当てに大勢の人が集まったが、そこで一番儲けたのは砂金堀に来た人達にツルハシを売った人であり、すぐにボロボロになる作業着に代わり丈夫で動きやすいジーンズを売ったリーバイスの創始者リーバイ・ストラウス氏だと言われてる。
独断と偏見で断言すれば、指揮者や編集者と人種は、夢や希望を追うのではなく、絶えずカモを見つけるために躍起になっているが、自分自身を夢追い人のように演出する人々だと思えてくる。
カモになるのは、夢を追う人達だ。
夢を追うということは、プロセスよりも結果が大事だから、カモにされても結果オーライとなる。