水木一郎さんが亡くなられた。
アニキでありアニソンの帝王と呼ばれる水木さんのおかげで、アニメの歌が人気でも歌ってる歌手が注目されることはほとんどないというアニソンの宿命が払拭されたが、それは長い時間を掛けての結果であり、水木一郎さんに負うところがとても大きかったのだ。
わたしも小学生の頃にマジンガーZのレコードを親に買ってもらって夢中になって聞いていたが、聞いていたのはマジンガーZの歌という意識で、歌っているのが水木一郎さんだなんて全く覚えなかったから、水木一郎さんの他の歌が聞きたいなんて思ったこともなかった。
今やマジンガーZの歌や「ゼッッーーート」という雄叫びは10代や20代の人にも浸透して受け継がれている。
そういうことを思い出しながら思った話。
長く愛されるためには、それが人であろうとモノであろうと、好ましい印象が長期に渡って持続する魅力が必要だというのは誰でも理解できるだろう。
だから、意識してそういう魅力あるものを創ろうと誰もが一度や二度は思ったことがあるはずだ。
そのためには、それがどういう分野であろうと勉強や研究や試行錯誤が必要になる、しかし、それだけでは足りないということも悟るようになる。
タイミングを含めた偶然の要素を味方につける必要があると悟るのだ、それは努力などとは異質な存在だ。
人は、自然とより高度で緻密なものを求めるようになる、例えそれがエンタメの分野であろうと。
ヒットしたものの模倣には、新しい模倣の手法が必要になる。
簡単にいうと、全てが複雑化し始めるのだ。
アニメの世界の絵作りや声優の多彩な声色作りなど。
高度な装置だけでなく、大勢のスタッフを抜きには成り立たなくなる。
最近の日本映画の大ヒットはアニメが記録することが多い。
ヒットというのは比較的短期間の場合の評価だ。
それとは別に、長期間続くという観点で見ると、アニメの世界ではサザエさんやちびまる子ちゃんやドラえもんが浮かぶ。
老若男女関係なく受け入れやすいという特徴も持っているし、何気ない日常がテーマなのでネタの枯渇もない。
もう一つ忘れてはいけない大きな特徴がある。
登場人物の顔や体型やファッションがシンプル過ぎるくらいなのに、それに不満や物足りなさなど全く感じないことだ。
それでいて人物像はきちんと表現できているので、作品内でドロドロの恋愛劇や殺人事件が起きても脚本が良ければ成立するはずだ。
作品内の登場人物に対する感情移入のリアルさと絵(画)のシンプルさは対立しないのだ。
むしろ、何もかもが高度化することで失ってるものがあるのではとすらと思ってしまう。
今では誰もネガティブなイメージなど持たないものにゆるキャラがある。
自治体や官公庁のイメージアップ活動に使われるキャラクターだが、当初はゆるいという表現がネガティブに捉えられていたので、ゆるキャラと呼ばれることを嫌がる自治体が多かったらしい。
ゆるキャラというとふなっしーやくまモンが代表だろうが、GoogleTrendsで反応の変化を時系列で見ると、
ブームは沈静化し定番化したことが感じられると共に、ふなっしーが突き抜けていたことが分かる。
実はこのゆるキャラの顔とサザエさんやちびまる子ちゃんやドラえもんの登場人物の顔や表情には共通点が多いし、ゆるキャラの中でふなっしーがダントツなのは声を持ってるからだと思ってしまう。
それも、ふなっしーの動きと一致するような声なのも大きいだろう。
水木一郎さんの話に戻ると、いつの頃からかテレビで見る水木さんは、雄叫びを上げる眉が吊り上がった水木一郎という変則ゆるキャラを演じていたような気がする。
ご冥福をお祈りします。