有名人は何をやっても人を集める力があると感じるが、その一方で”一発屋芸人”のように人気が持続せず集客力が短期間しか保たない場合もある。
しかし、人気が安定してる有名人は、何をやっても上手くいくのが予定調和だと思っていた。
衝撃発言:カンニング竹山さん、超売れっ子芸人にあるまじき内容をツイートしてしまう! 「俺、はずかしいです。」
竹山さんのTwitterアカウントはフォロワーが94万人もいるのに、動画の再生回数はもっとも多い動画でも2万回。少ないものは2000回にも満たない。フォロワーが1人1回見れば、94万回いくはずなのに……。
カンニング竹山、YouTuberデビューも話題にならず!なぜ芸能人はウケない?
竹山は現状を受け、自身のツイッターを更新。「大見栄きって自腹きって男3人で福岡に乗り込むが早くも夢破れ次は再生回数を増やそうとTwitterにてネットニュースに呼びかけたり、若者に呼びかけたりするもまったく効果でず」と告白。「俺、はずかしいです。。。カンニング竹山と申します」とつづっており、ファンからは応援や番組の改善案などが寄せられているものの、再生回数には繋がっていない。
人気や集客力は『何に』宿るのだろうか?
実際に見てみた『カンニング竹山〜拝啓テレビ局様チャンネル』。
私が見た時点では登録者は4000人を超えていた。
アンチテレビな存在がYou Tubeだという印象があるが、実際に見ると著作権の問題等はさておきテレビ番組のアーカイブものや一部引用も多いし、オリジナルものでもその展開のさせ方はテレビ番組の作り方や演出を参考にしてるものが多い事に気付くと、決してテレビがダメなわけではないと感じる。
世間で話題になるYou Tubeや、私が見たくなるYou Tubeから気付くことを上げると、
・暇つぶしになるものが好まれる(大人用と子供用と乳幼児用に別れる気がする)
・知らないことを知りたい、良くわからないことを知りたい
・以前に見たり聞いたりしたことがある情報を探す(音楽や番組や事件など)
細分化するとキリがないだろうが、大雑把にくくるとこんなものではないだろうか。
映像があることで一目瞭然性があることが最大の特徴だが、映像に意味を持たせず文字や音声が主役のものも多い。
テレビとの違いは、作りのレベルの差というよりも、受けている制約の違いだと感じる。
自由にできる代わりにダラダラしてしまいがちだが、テレビだったらできなかったり、隠すであろうことをズバリと表現したりできる。
テレビに比べると予算や機材のレベルは低いので学芸会レベルだが、それでもここまでできるんだということが説得力や納得力を生み出すので、ツボにハマるとテレビにはない面白さを感じる。
しかし、決してテレビが劣っているわけではない。
カンニング竹山のYou Tubeを見た印象は、テレビの枠から抜け出きれてないなと言う印象だった。
キレ芸が売りのカンニング竹山は、芸風は自由に見えるが、実はスポンサーを含めて関係各位への配慮は怠っていないだろう。
そんな日常から抜けきれてなく、しかも本当はやりたいことがあって始めたのではなく、やりたいのはなんでも良いからとにかくYou Tubeデビューすればツイッターフォロワーが見てくれるという予定調和の確認がしたかったのだろう。
と思っていたが、検索すると竹山自身がこんな発言をしていたらしいことがわかった。
今年1月の話。
「博多華丸・大吉らと違い、地元福岡で番組を持っていないことについて、どう思っているのか?」と聞かれると、「言い訳させてもらうと、おれは関東芸人だからさ」と弁解する。
いや、ぶっちゃけた話、(番組を)持ちたいのさ。でも……言わせる? おれに。もう言うよ! 今後は言わないよ! (仕事の)話来ないのよ!」
「今回から、自分で投資するわけでしょ。制作費を自分で出すから。福岡でロケをやります、と。それ見て決めてください。この街の編成の方。どうですかね? こんな番組、ってことだわね。それをやってる人、いないでしょ?」
そのためのプロモーション活動がYou Tubeだったのだが、結果は冒頭の記事につながるものとなる。
有名人でも思い通りにならないことは多そうだ。
世間ではフォロワーが多いと未来が開けるような話が多いが、どうもそう単純な話では無さそうで、奥が深そう。
100万部超えのベストセラーや視聴率20%のようなわかりやすい人気の目安となる指標も分散化し、人の好みも分散化していることを感じる。
ところで、"人気の秘密"で検索すると予想と違ったものが多く出てきた、その共通点が、
・細部の作り込みをしっかりする
・複数のおもしろポイントが有る
・ワクワクドキドキを体験(疑似体験含む)できるなど手応えや実感を感じられる
などが感じられる。
もっと個性やキャラクターや見た目に依存することが人気の秘密だと思っていたが。
ふと、子供の学芸会がなぜ楽しいかが頭に浮かんだ。
目標を定めて、可能な限りそこに近づくために一生懸命がんばる。
必要な道具の多くは手作りで、先生や親の助けを借りながらも皆で創っている。
仮に毎年同じ脚本を使っていたとしても、毎回違いがあり感動するだろう。
演じる子供が違ってることもあるが、同じことなのに一期一会を感じさせてくれるから。
また他の要素として、完成度が高いわけではないのに、良く作り込まれてることを感じさせてくれる点も上げられる。
演じてる子供の中に身内や直接の知り合いがいなくても受ける印象に違いがない。
期待以上のものに感動するのは自然なことだが、これはイタチごっこにつながる。
もっと期待するし、もっと感動させたいとなっていく。
しかし、やればやるほど予定調和の泥沼にはまる。
予定調和の大元には、過剰な"もっともっと"という期待がある。
期待するのは、同じ路線で行けると思うからで、だから同じ路線に活路を見出そうとする。
しかし、そのやり方で予定調和が払拭できないとすれば、路線を間違えてるということだろう。
"もっと"を求めるならば、"違う"ことが大事になる。
永遠のテーマが見つかればベストかも知れないが、それは稀な話だ。
いろんなものがタイムラインを流れ、消えて行く。
健康に必要なのは、毎日1万歩のウオーキングだという意見があるかと思えば、毎日1万歩は歩き過ぎで健康を損なうという意見があったり、見出しだけではその真意が不明な意見や考えに振り回されることが増えている。
新書のタイトルを見ると、それは誰に向けて書かれたものなのかを考えるが、"いっぱいあるけど欲しいものだけがない"と思わせるものが多い。
たくさんあるのに、陳腐で予定調和的で、どれも同じ、そんな印象を感じさせるものに囲まれた日常を送っている。
過剰に"違う"を求めると、需要のない、自分に合わないニッチにはまり込んでしまうことが増えるだろう。
そんな流れの中で、誰かの心に引っかかるためには、その瞬間瞬間に発するメッセージで違いを作るしかない。
"期待に応える"ということが良くなさそうだ。
改めて考えると気付くが、"期待に応える"とは自分のしたいことではない場合がほとんどだし、多くの場合周りの誰かに課されてることが多い。
期待する人のことを、"期待してくれる人"と捉えると、自分の応援をしてくれてると感じることが多いが、そんな人が身近にいたら、もしかしたら疫病神かもと心の片隅で意識しておいたほうが良いかもしれない。
期待に応えると言うのは、期待してくれる"人"と期待されてる"こと"を予め絞り込むからこそできることでもある。
自分じゃない誰かのために行動することになる。
日本では、学校や仕事を通じて、他人に合わせる行動が増え、気が付くと他人に迎合することが当たり前になっている。
この習慣から抜け出すことは大変で、かなり意識的に行動しないと抜け出せない。
SEOを意識することが多いが、SEOを意識することは相手のことを考え過ぎることにつながり、自分らしさを無くすことにつながりやすい、その結果、その他大勢の仲間入りをしてるとすればもったいない。
見つけてもらうために工夫するよりも、見つけてくれた人がリピーターになってくれるための工夫のほうが自分らしさもやりがいがあるだろう。