違う見方

これから時代はどう変化するのかを時事ネタを交えて考察。考える際のヒント。気付くためのヒント。

アプリがつくる"ことばの壁"

少し長い前置きから始める。

 

ことばで考え、ことばでコミュニケーションを取る人間という生き物は、知らず知らずのうちにことばの持つ同一性を全ての前提にする。

 

「空が青い」と言ったら、""と言うものに対して同じ認識を持ち、"青い"に対しても同じ認識を持たなければ、コミュニケーションが成立しない。

 

ことばでコミュニケーションを取るから、"同じ"であることに心地良さや安心を感じ、"違う"に対して不快感や嫌悪を感じる。

 

多様性の時代などと言うが、人間は本来多様性を好む生き物ではなかったはずだから、多様性を認め、多様性を許容できるようになったということは進化にほかならないだろう。

 

しかし、多様性に対して本能レベルで拒否反応を示す人がまだまだ多いのも確かだし、ある意味しょうがないことだろう。

 

共感と排除が共存する世界に我々は生きている。

 

同じであると一括りにしてまとめることを「抽象化」と言い、その反対は「個別・具体的」と言われ、多様性を認めるということは、「個別・具体的」であることに対する許容範囲が広いことを意味するのだろう。

 

争いの原因を利害の対立だと感じることは多いが、そもそものキッカケのレベルまで遡ると、ほんの些細なことばの違いだったりするのかもしれない。

 

感情的なトラブルの原因の多くは、ことばの使い方にあるのかもしれない。

 

トラブルの原因にことばの使い方があるのならば、逆にことばの使い方やことばに対する感じ方が同じだという理由で強く結びつく人間関係もあるだろう。

 

そのような場合の多くは、ことばが理由で結びついてるとは感じずに、信用できるから、信頼できるからと認識し合うだろう。

 

 

前置きはここまで。

 

 

 

 

インターネットの登場は、人と人、人と情報、情報と情報、の繋がりに革命を起こしたと言われる。

 

 

インターネットが無ければ繋がらなかった人間関係や、発信されなかった情報や知ることがなかった情報が存在することを想像すると、確かに革命だったのだろう。

 

しかし、どんな革命でも革命直後と革命後しばらく経ったときでは、革命の意味が変わる。

 

変化に対する熱狂は徐々に薄らぎ、いつしか当たり前の日常になる。

 

 

スマホの普及が、インターネットはブラウザではなくアプリでつながるものにシフトさせた。

 

インターネットの世界は無限を感じさせるが、ブラウザ越しにインターネットにアクセスする時は入り口は検索からスタートする事が多い、実際にはお気に入りのサイトを登録し、そこを巡回していても、身近に"検索"があった。

 

しかし、入り口がアプリになると、それはお気に入りのみへのアクセスに留まることが多い。

 

インターネットが無限ならば、その入口を少々細分化しても、それぞれも無限に近い世界観がある。

 

だからアプリが入り口でも広がりは大きいが、なぜか狭い世界を感じる、囲まれた世界と言ったほうが良いだろうか。

 

この違いは、日常生活でどのような地図を使っているかの違いに感じる。

 

ブラウザ越しにインターネットにアクセスすることが、最初に世界地図や日本地図を見るような感じだとしたら、アプリでのアクセスは生活エリアに近い詳細地図に最初からアクセスするような感じに思える。

 

 

ブラウザでアクセスしても目的が生活エリアに近い情報を求めることであれば、結局アプリでアクセスするのと同じところに着地する。

 

あるのは印象の違いだけだが、この差は大きい。

 

最初に大きく俯瞰できるか、最初から絞り込むか、これだけの違いが大きな差を生む。

 

主流のアプリを活用することが、効率的で合理的だと捉えるか、ブラウザに比べて近視眼的に感じるかという印象の違いに通じる。

 

どちらも結局は同じなのだが、スタート位置の違いが生み出す違いがある。

 

ブラウザを多用する場合はPCを使ってることが多く、アプリはスマホやタブレットで用いる。

 

アプリは、小さな画面で見ることを前提にデザインされているので、見易いのが特徴で洗練されている。

 

ブラウザは画面サイズで受ける印象が違うが、大きい画面を前提にしてるので、良く言えば情報量が多いが悪く言うと雑然としている。

 

アプリに慣れると、見にくい、洗練されてない、に対して違和感を感じるようになる。

 

違和感は、拒否感につながりやすくなるので、多様性がスポイルされる。

 

インターネットの魅力が、アプリを入り口にすることで、オープンな場から、クローズドな場に変化してきている。

 

 

 

革命の熱狂はやがて冷め、おだやかな日常になると、革命が実現したことはいつしか当たり前になる。

 

これは、大災害の被災に学ぶ教訓の風化と似てるかもしれない。

 

世代差を超えて受け継がれない当事者感覚みたいなものがある、当事者感覚は知識に変化し、情報が増えるたびに上書きされ違うものになっていく。

 

 

ブラウザでもアクセスできるが、多くの人がアプリでアクセスしてるのがSNSだ。

 

2018年3月更新! 11のソーシャルメディア最新動向データまとめ

 

そんなSNSの中でも最もスタンダードな存在のFacebookが揺れている。

 

以下に、そんなFacebookが何に直面してるかの記事のリンクを貼るが、いづれも経営体質に問題があると表現している。

 

しかし私は、そんな経営体質に至った理由として、アプリでアクセスするユーザー像の特徴が経営体質に影響を与えたような気がする。

 

 

フェイスブックはなぜ全米を激怒させたのか

「人と人をつなぐテクノロジー企業=良い企業」と勝手に思い込んだ同社幹部は、社会的なリスク、さらには企業統治のリスクに対する備えを怠ってきた。結果、自社への忠誠心を企業の社会的責任(CSR)より上に置く企業文化が形成された。情報セキュリティーの最高責任者が同社を追われたのも、情報開示を主張して、同社幹部の方針に疑義をはさんだためと言われている。

 

 

プラットフォーマー黄金時代、米公聴会が告げた転機
「フェイスブックは氷山の一角」との声も

きっかけはフェイスブックだが、今回の公聴会の意義はプラットフォーマー全体への規制にも道筋をつけたことかもしれない。大量の個人情報はいまや米グーグルやアマゾン・ドット・コムなども扱っている。議会の動きに詳しい米ジョンズホプキンス大のナオ・マツカタ非常勤講師は「フェイスブックは氷山の一角。大きな議論はここから始まる」と話す。

 

 

スマホの登場がインターネットを、現実と切り離された世界から現実の延長へと変えていったと言えるだろう。

 

仕事や学習と遊びが渾然一体になり、即物的な解答を求める場になって行った。

 

これらの変化(シフト)に、アプリ化が大きく関係してるだろう。

 

アプリが醸し出す没入感は、ビジネスにおける顧客の囲い込みと同じで、重度のリピーターにすることが目的になる。

 

スティーブ・ウォズニアックもFacebook利用やめる。ティム・クックはFacebookの存在意義すら否定

 

Facebookが槍玉に挙げられ、糾弾されてる理由としてスティーブ・ウォズニアックが挙げているのは、

 

ユーザーは人生のあらゆるデータをFacebookに提供し、Facebookはそれで広告マネーを大儲けしている。利益はすべてユーザー情報から生まれているのに、ユーザーにその利益が還元されることはない。Facebookにおいてはユーザーが商品なのだ。

 

ティム・クックが挙げているのは、

 

これだけ細かいプロファイリングが存在すること自体、おかしいんですよ。複数のソースの情報をつなぎ合わせると、信じられないほど深い個人情報になります。データポイントの点と点をつなぎ合わせて誰かが悪用しようと思えば、いとも簡単にできてしまう。

できるけどやってはいけないことが人生にはあります。これはそのひとつ。

その存在を許してはなりません。

 

 

国家や国境といった境界はどんどん少なくなるが、ことばの壁は大きな壁となるだろう。

 

ことばの壁は、しゃべる言語の壁であるとともに、同一言語であっても大きな壁になるのが、『発言の属性』だ。

 

格差が話題になるが、格差が意味する肩書や収入といった属性ではなく、何を考えているか、どう感じているか、と言った最終的にはことばでどう表現するかの部分に現れる属性がすごく重要になるだろう。

 

Facebookがやっていたのは、この表現の属性の支配だったのだ。

 

改めて感じるのは、人間の活動の多くは、ことばで成り立っているが、そのコミュニケーションがアプリで分断されているということを考えると、今は思われているほどオープンな時代ではないかもしれない、だから多様性が議論されるのだろう。