ひと昔前、「女性は一人でラーメン店には入れない」と言われていた。
それは、本人にとっても、周りで見てる人にとっても違和感を感じさせる行為だと思われていたからだ。
違和感の多くは、恥ずかしい行為と双方が感じるような空気感が世間に漂っていたからだ。
一人で行動することは、友達や仲間がいないと思われがちなことであるとともに、ラーメンは男の食べ物だと言う空気感があった。
このような空気感は、偏った好奇の目線を作り出していた。
似たよう好奇の目線は、男性が化粧品コーナーにいるような場合にも向けられていた。
しかし今や、男がすることは女もするし、女がすることは男もするようになり、複数人でするものだったことを個人ですることは珍しくなくなった。
“個サル”とは? 遼河はるひ、ひとりで楽しむ「ソロ活」に興奮
自由気ままにひとり旅行、ひとりカラオケ、ひとり焼き肉……。「ひとりでいたい」「自分だけの時間や空間を大切にしたい」と、ひとりの時間を楽しむ人がいる。
このような行動の多様性の許容を促進したのは何だろうか?
自由が浸透したからか?
不景気になったからか?
趣味嗜好が変化したからか?
単純に行動パターンが拡大したように見えるこれらの行為は、別のどこかで目に見えないトレードオフを生んだに違いない。
拡大する世界がある一方で、縮小する世界も生まれていたはずだ。
出版業界は"子供はまんが無料"を検討せよ 海賊版への対抗に「遮断」は無理筋
まんが市場は先にも述べたとおり4000億円程度の産業でしかなく、派生先であるアニメ産業も業界外のファンドやテレビ局などのタイアップがなければ生きていけない、いわば副次産業のひとつに過ぎません。
膨大なコンテンツ資産がある、といっても、旬の過ぎたまんがは事実上死蔵されているだけです。
課題は明らかです。それにもかかわらず、漫画家やアニメーターは使い捨ても同然の就労環境のまま長年放置されているのは、戦略の不在、政策の不備以外の何物でもないでしょう。同じ問題はプログラマー、SEなど、日本の知的財産を担うすべての職種で発生し、「デスマーチ」が横行しています。
2つの話題に共通することは、ことばと辞書の関係に似てる気がする。
人間がコミュニケーションとして使うことばには、同じことば(単語)でも使われる年代で意味やニュアンスが変化することがある。
そんな時、ことば使いが乱れてる、間違ってると言われることが多く、辞書が間違ってる、あるいは辞書が旧いとは言われない。
たとえば「現代風で魅力がある」ことを示す言葉は「ハイカラ」「ナウい」「いけてる」「クール」など次から次へと生まれる。ということは、古い言葉は次から次へと意味が薄れ、インパクトを失って廃れていくのである。今では、「ナウい」などという言葉はまったくナウくない。
リアルタイムで少しずつ変化することは、自覚を伴わない事が多い。
そんなつもりが無くても競争に巻き込まれてるのが現代の生活だが、競争相手は誰なのか?
実は、ひっそりと競争相手が変化しているが、そのことを意識している人達は、まだまだ少数派だ。
大企業から“ソーシャル出世”の時代へ。やりたいことができれば利他的になれる
まず個人と仕事の関係性で言えば、最も意識しなくてはならないのが「機械との差別化」でしょう。今までは他の人間と照らし合わせて、「どちらの能力が高いか」と比較されていましたが、これからは「機械とどう違うか」「人類しかできないことは何か」ということを考えざるを得ません。
好きなこと、やりたいことをやった結果、起きた波紋を自分で掬いとっていくと、自由になれるんです。ただ、それには責任が伴います。起きたことはすべて自分のせいということですね。
一方、変化の最前線のように捉えられてる分野は、案外古臭い昭和な薫りを漂わせているのかもしれない。
YouTuberを馬鹿にするサラリーマンは絶対に仕事ができないワケ
【人気YouTuberの特徴】
1:毎日更新しているが、動画は5~10分程度と長くない
2:(人気YouTuberは特に)顔出しをしている
3:表情力がある(HIKAKINは変顔が得意です)
4:動画のサムネイルに自分の顔が入っている
クライアントと話している時に、相手に違和感を与えてしまってはダメなのです。
不潔な人は嫌われるというのは当たり前ですが、それ以上に気が散ってしまうからダメなのです。
YouTuberにとっての視聴者は、営業マンにとってのクライアントと一緒です。気が散らないように、動画に不必要なものは映さない。かつ自分のことを覚えてもらえるように、毎日配信する。
そんな彼らの振る舞いは、営業職をしていて参考になるところが多いです。
どうやったら自分の持ち味を活かせるかと考える話や意見はたくさん見かけるが、世の中の多数派(私も含まれている可能性は大)は、別の理屈に振り回されているかもしれない。
誰もが好きなものを求め、嫌いなものを避けるのが当然だと、頭では思っているかもしれないが、どうやら心の中では、結構めんどくさいことが起きているかもしれない。
好きなことを敵に回し、嫌いなことを味方にする、頭の中と違ったことを実生活の場で起こしているかもしれない。
亡くなった伊丹十三がエッセイで、つまらない人間の傾向の一つとして「嫌いなものについて話すことを好む」ということを挙げていた。その頃の伊丹にとっては、それはサラリーマンに多くみられるものだったらしい。でもどの本だったかな。 https://t.co/kUT5z7IuqJ
— Akash (@Akash47473353) 2018年5月3日
突然、去年のこのtweetを思い出した。「好きなものの話しかしない」これはオタクには当たり前のことなんだけど、世の中そうでない人が本当に多いのだ。じつは私、大人になるまでピンと来ていなかった。「クサすために本を買う」とか「後で悪口を言うために人間関係を続けている」とかそんな人のこと。 https://t.co/Nu02boatbB
— 岡田育 / Iku Okada (@okadaic) 2018年5月1日
頭で考える時、自然と2次元の平面の世界で考える。
しかし、実際の世の中は3次元で立体的だ。
自分が向いている方向の最も遠い場所を思い浮かべると、自分の真後ろになるということがある、想像する最も遠い場所は、実は最も近い場所になることがある。
このことに気付かないことが、人生の悲劇や喜劇を生むことがある。
いつもおもってること pic.twitter.com/UTmAzvkhxE
— 神奈いです◆5wbYUif2XM (@sazaeP) 2018年5月5日
類似の考えで、より詳しく表現すると、こういう見方もあるらしい。
最も大事にしなければいけないことを蔑ろにし、どうでも良いことを有難がるという間違いを、人間は犯す生き物だ。
ようやくゴールデンウイークが終わるが、悲喜交々の想いが渦巻いているだろう。
休みを満喫したはずなのに疲れ果てたり、大事な家族にウンザリしたり、大した予定もなくこれといって何もしてないのに妙にリフレッシュできたり、ゴールデンウイークを迎える前と違った想いを持ってる人も多いだろう。
上手く行っても行かなくても、人生は思った通りにはならないものだ。