本でもブログでも内容が良ければ読んでもらえるわけではない。
コンテンツと読者の出会いがまづ必要になるし、出会った際の印象も重要だが、その印象を受ける際のタイミングや間も重要だろう。
十分に時間がない中で急かされるように目にしただけでは印象は良くないし、その時の気分にも左右されるはずだ。
つまり、ある種の運も問われるし、良くも悪くも最近よく言うところのマッチングが問われるのだ。
市場原理やマーケティング理論のカジュアルバージョンがマッチングと呼ばれているように感じられる。
出会いを作るだけがマッチングではなく、その組み合わせが成立しなければ意味はない。
村上春樹氏が"SNSを一切見ない理由"に猛烈なる共感!そのあまりにも淀みない「正論」とは?
「大体において文章があまり上等じゃないですよね。いい文章を読んでいい音楽を聴くってことは、人生にとってものすごく大事なことなんです。だから、逆の言い方をすれば、まずい音楽、まずい文章っていうのは聴かない、読まないに越したことはない」
この話は最近賛否両論で話題になっていたようだが、村上春樹氏は『しょうもない出会いなら、出会わない方がマシ』と言ってるのだとすると賛成できそうだが、単に許容度が低過ぎるだけだと捉えれば、ありがちな老害となりそうだ。
しかし、この村上春樹氏のことばがきっかけで思ったことがある。
現代のように誰でも自由に文を書いて、自分の意思だけで自由に発表できるようになると、昔だったら編集者という第三者のフィルターを通して選別され加工されないと世に発表することができなかった時代が不思議に感じられる。
これはこれでマッチングが問われていたのだ。
従来のコンテンツが他人の審査というフィルターを通すというハードルがあったのに対して、現代のSNSやブログに代表される個人コンテンツではフィルターは自分の気分次第になる。
しかし、表に出そうとする意思があるという意味では、それぞれ一定水準以上をクリアして、鑑賞に堪えるものでありたいとは思っているはずで、上等でないからといって言いたいことを言いっぱなしばかりではないはずで、頭や心のどこかで読む人や読んで欲しい人を想定してるはず。
この想定のレベルが低いことを村上春樹氏は『上等じゃない』と言ってるのだとすると、そこは頷ける。
もっとも、世間の中には村上春樹の文章が上等だとは感じられないわたしのような者も少なくはないと思われるので、つくづく文章というのは独り善がりなものだと思われるし、独り善がりが原点じゃなければ成り立たないようにも感じられる。
最終的には独り善がりではダメなのだが、始まりは独り善がりからにならざるを得ないとすれば、独り善がりも大事になる。