感染者が増えた減ったと一喜一憂。
その理由としての人流が増えた減ったと一喜一憂する今日この頃。
思えばコロナ前だと家にいることはあまり良いことだとされなかったような気がする。
家にいることに意味や目的がある活動でもしてない限り、家に居続けることは評価につながる事が少なかった。
必然的に現代人のDNAには、身体が元気なら、する事があろうとなかろうと取り敢えず外出するのがデフォルトという生活が基本だった。
そして多くの場合、外出すれば程度の差はあってもなんらかのコミュニケーションがあるものだ。
最近著しくコロナ感染者が増えて、その度に減らぬ人流が取り沙汰されるが、それは生理的なガマンの限界のせいだろうなと感じている。
オリンピックが言い訳に使われる傾向がありそうだが、2年連続で夏をエンジョイできないことは人に依っては死刑宣告にも似た辛さを感じていても不思議はないだろう。
外出することがデフォルトであるように、夏をエンジョイすることも充実した人生にとってはデフォルトだというのが通説だからだ。
このように考えていると『デフォルト』ということばの不思議が感じられる。
デフォルトには大きく二つの意味がある。
- 債務不履行
- 初期設定
ビジネス用語として使われる場合は債務不履行という意味で使われることが多く、それは契約を守らないことを意味し、多くの場合では約束されたはずのお金の支払いをしなことを意味し、デフォルトが確認された企業や経営者は社会的な信用を失う。
では、なぜこの債務不履行を意味するデフォルトが初期設定という意味になるのか。
初期設定という意味で使われる場合はIT用語になるが、日本ではピンとこない人もいるだろうが、欧米ではPCなどは自分に相応しい設定に変えることが当たり前で、買った時の初期設定で使ってることは正しく使ってないことを意味し、場合によっては軽蔑の意味も加わるといわれている。
夏の暑さの下でスポーツすることは、長年日本人には気合と根性だけでなく青春すら感じさせるものだったが、2020東京オリンピックで「死んだら責任取れるのか」激しい暑さと湿気にメドベージェフ怒りの抗議
となるほどに、そもそものデフォルトの意識が全く違っていることが露呈した。
暑かろうが苦しかろうが、それはライバルも同じこと、そう考えがちな日本人アスリートにとっては与えられた環境に対しては文句を言わないことがデフォルト。
一方、海外のアスリートにとっては自分のベストパフォーマンスのために必要な環境確保に尽力するのがデフォルト。
この場合、どちらかが正しくてもう一方が間違ってるわけではない。
違っているのはデフォルト(この場合は初期設定の意味)に対する意識だ。
デフォルトでベストを尽くせるようにと考えるのか、それとも、ベストを尽くせるようにデフォルトの設定に満足しないのか。
目指す究極は同じだとしても、アプローチは全く異なっている。
これは他人事ではなく自分事でもある。
今年の夏は自分のデフォルトを再確認するには相応しいかもしれない。