こだわりを持った作り手やメーカーとしては、最良のモノを作ろうとするのは当然で、さまざまな実験やテストなど試行錯誤を繰り返す。
そういうプロセスを経て世に出るモノだが、そこにスペック以外の評価軸、例えば使い勝手などが入る余地が多ければ多いほど、作り手の試行錯誤から漏れる設定やセッティングが生じうる。
だから可能な範囲で調整余地が設けられ、使用者の判断で調整し使い勝手の向上を図ることができるようにされてるモノがある。
作り手が設けた調整余地(システムやメカニズムとして)の範囲で行う限りはオリジナルの状態とされるが、それ以上を望んだ場合は改良・改造・カスタム・チューニングなどと呼ばれる領域に入るし、その延長線上に世界に一つのオーダーメイドというオリジナルも存在する。
その種のモノは広い意味での道具に該当する。
身体や手足への馴染みの良さが求められるものは、それが何であろうと道具となるし、反応やフィードバックに快や不快を感じるものも道具たり得る。
日本には『弘法筆を選ばず』という諺がある。
達人は道具を選ばないという意味で使われることが多いが、現代においてはあらゆる分野で一流と呼ばれる人ほど道具に対するこだわりは大きいし、道具のみならず道具を使用する環境への配慮までこだわる人も少なくない。
個人的な経験で言えば、良いものの良さは一瞬で分かることが多いが、その良さに対する感動が失われるのもまた早い、つまり一瞬でその良さに馴染み、その良さは当たり前になるのだ。
だから、違う道具を使わざるを得ないような場合に、『ああ、あれは本当に素晴らしいんだ』と再認識できる。
このように考えていくと、弘法筆を選ばずの見え方も変わってくる。
道具は馴染んだモノが一番良いという風にも解釈できる。
良いモノに触れて一瞬で馴染むという経験をすると、探せばもっと良いモノがあるのではと思うようになるだろう。
一方で、時間をかけて馴染み唯一無二の道具になったと感じるような経験をすると、馴染むということを一瞬で得ようとすることは絵に描いた餅のように感じても不思議はない。
もっと良いモノを求めるという気持ちよりも、手入れや保管状態の方をより意識するようになる。
極論すると、良いを求めて取っ替え引っ替えするのか、より馴染むようにと気を使うかに分かれる。
この道具に対する意識は、人間関係や恋愛においても共通しそうだ。
どちらが良いとか正しいとかではなく、そもそもタイプが違うし、前提となる体験や経験が違っているのだ。
弘法筆を選ばずという観点で、自分自身や世の中を見渡すと気づくことがたくさんありそうだ。
効率ばかりを求めると、馴染むということのパワーに気付かないままかもしれない。