世の中には考えない人が多いように見える。
考えないというよりも、考える範囲が非常に狭いと言った方が相応しいかもしれない。
不思議なことに、知識も持ってるし、正解を問うテストをすると良い点数は取るのに、テストに出ないことは考えないようにしてるかのようですらある。
その人たちの特徴を見てると、考えるということの本質が見えてくる。
一つだけ存在する正解にアプローチするためには一生懸命考えようとするが、正解が何なのかが分からないことには立ち向かえないという特徴がある。
世の中には正解が分からないどころか、問題がなんなのかすら分からない事ばかりなのに。
テスト以外の現実社会で直面する問題に対しては、答えは存在しなかったり複数存在する場合があるのだが、そこにもたった一つの正解を求める人は多い。
結果として彼らが立ち向かうたった一つの正解は、上司や取引先や顧客などの利害関係者へ媚びへつらうためであったり折り合いを付けるだけのものになり、本当の意味での正解ですらない場合も多い。
考えることと空想や妄想は限りなく近く、スタートにおいてはほぼ同じだ。
始まりには、疑問や願望がある。
疑問や願望がなければ考えることはできない。
疑問を解決するためにはあるいは願望を叶えるためには何が必要か、どんなプロセスが必要か、それを思うことが考えることの始まりになる。
そうすると、考える前に知っておかなければいけないことがあることに気付く。
知っておかなければいけないことを理解できると、疑問が湧くことがある。
そういう疑問の多くは自分なりの答えを持つしかない場合が多く、世間やネットに落ちているとは限らない。
自分なりの答えを模索するための最初は、独断と偏見で仮説を立てること。
どのような仮説を立てても構わないが、少なくとも自分の脳内では成立を実感できることが大事になる。
できもしないと思ってる事を思い続けるとただの妄想で終わってしまう。
この仮説の組み立て方は個性そのものになるはずで、それこそがオリジナリティになる。
チームで取り組んでることならば、仮説はチームの承認を得る必要があるが、個人ならばその必要はないが、実現可能だと自信を持つためにはチームの承認を得るためのプレゼンのような自問自答は必須になる。
そういう意味では第三者に対するプレゼン的な視点は常に必要になる。
最も大事なことは、考えることで仮説は立てられても、仮説はまだ答え未満なので、仮説はあくまでもプランAに過ぎず、その後の展開次第でプランBやプランCと変化させる必要が出てくる。
これらはすべて考えるからこその産物。
お手軽にオールマイティを求めるとセオリーに過大な期待を寄せがちになるが、セオリーもプランAの一種に過ぎない。
世の中が混沌としカオスな出来事が増えれば増えるほど、一人一人に仮説を立てる力が求められるに違いない。