PCが一般的になったのはWindows95が登場した1995年から。
当初のPCはデスクトップが主流。
ノートパソコンが主流になり始めたのは21世紀に入ってから。
ノートパソコンが小型軽量化しモバイル性を高めたが、バッテリー性能がそれに伴いACアダプター無しでも実用性が高まったのは2010年頃から。
同じタイミングで普及し始めたスマホによって、モバイルPCですらモバイル性に不満を感じる人が増えた。
サイズの違いから生じる使い勝手の差はどうしようもないが、PCで出来ることの多くはスマホでも可能になった。
小型軽量高性能化は、豊かで便利をどんどん加速させたが、あるレベルを越えると満足度が高まるわけではなくなったのは、一定レベルを越えて金持ちになっても幸せが比例して高まるわけではないのと似ている。
満足や幸せが一定レベルを境に思ったように伸びないどころかむしろ減少することは心理学が好むテーマの一つで、足るを知ることが大切だとまとめられることが多い。
まるでムーアの法則(半導体の性能は2年で2倍になる)に従って高性能化するITデバイスが一定レベルを越えてももはや満足度が向上するわけでないことにも似ている。
ムーアの法則ということばを初めて聞いたのが20年前頃。
この20年で1000倍以上に性能が上がってるが、性能以外の要素で1000倍以上になったものがあるだろうか?
国や企業や人も成り立ちは発展途上と呼ばれる、そしてその後資産的な価値や評価が1000倍以上になったらもはや発展途上ではなく成熟してしまう。
成熟してるのに発展途上であるかのように振る舞っても、それは老人が若者ぶってるだけだ。
この数日でムーアの法則に関する複数の話題を目にした。
それらはムーアの法則が今後も持続するのかがテーマであったり、ムーアの法則に従っての高性能化が何をもたらすのかだったりだが、なぜか明るい未来につながりそうではない。
AIや自動運転、さらなるIoTなど活かしようは様々あるだろうが、これ以上便利や楽が増えてもそれだけでは喜びや幸せにはつながらないような気もする。
21世紀以降のテクノロジーは、一見自由を拡大させたようで実は監視や束縛を促進させたとも言える。
明るい未来のためには、根本的に違う何か新しいものや仕組みが必要になるだろう。
根本的に新しい何かを作るためには、古い仕組みを無理矢理でも壊して押しのける必要がある。
古い仕組みの老朽化がどうしようもなくなってから着手するのか、それともまだまだ通用してるうちに着手するのかは悩ましい選択だ。
失敗や後悔や反省と成功は紙一重でもある。
今、世の中で起きてることはそういうことなのかもしれない。