領土を争っての戦争では、戦うという選択肢以外はすべて諦めに通じる。
そのような場合は、中途半端な未来や将来を描いたりせず今現在に注力するしかできない。
戦争の場合、戦いの最前線の兵士や現場地域の住民にとっては時間は今現在だけになる。
しかし、戦いの最前線から離れてる指揮官には今現在以外の時間軸にも思いを馳せることができる。
窮鼠猫を噛む、このような場合のネズミにはおそらく逃げるという選択肢がなく、戦うしかない状態で、かつ今現在という時間しか存在してないはず。
ヤラセではない真の格闘技では、リングの上の選手には今現在という時間しか存在してないはずで、試合が終わったら何食べようかなと思ったりはしないしできない。
もしできるとすればヤラセの八百長の場合か、試合するのがおかしいほどの体格差や実力差があるような場合だけになる。
人間が事に臨むに当たって選択肢として闘争と逃走が与えられる場合、闘争を選択する場合は今現在に注力するしかない。
それに対して逃走を選択する場合は、未来や将来を意識してることが多い。
しかし、皮肉な事に今現在に注力せずに未来や将来を意識してる場合に限って、描いたり望んだ未来や将来は遠ざかることが多い。
戦争や格闘技のように真っ向からぶち当たるような戦いがすべてではない。
頭脳プレイのような戦いもあり、頭脳を駆使すると『闘わずに勝つ(Fighting without Fighting)』を成立させることもできる。
闘わずに勝つことを目指すならば、作戦や戦略が必要になるし、それに基づいた戦術の実行がさらに必要になる。
そのように考えると逃走も、闘争の作戦や戦略の一つとしての位置付けになる。
引き際は事前に想定しておく必要がある。
つまり逃走のタイミングやルートも事前に想定して準備しておく必要がある。
敵を知り己を知ると百戦危うからず、この諺の意味は情報化時代では深読みが必要になる。
知っている内容が嘘やフェイクであることも考慮に入れる必要があるし、己のこともどこまで理解できているかが怪しい。
いつの時代も、簡単なようでとても難しいのが、敵を知ることであり己を知ることなのだ。
そもそも敵とは?、これが定義できてないことも少なくない。