違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

本能vs理屈!?

母国語以外の言語を習得しようとするならば、早く始めるほど効果が高いと言われる。

 

母国語は、理屈というよりも本能に近いところで身に付けると言われる。

 

本能に近いところで身に付けた言語は、ネイティブ(その土地に元々いた人)のレベルに近づけることができる。

 

逆に、どんなに猛勉強したとしても、習得のスタートが10歳を超えてるとネイティブのレベルにはならないと言われる。

 

それは、言語を本能に近いレベルで処理するのではなく、理屈で処理するようになるからだと言われている。

 

 

 

本能で身に付ける感覚と理屈で身に付ける感覚の違いはどこにあるのだろうか?

 

 

 

 

最後のツイートは発端は牛乳を巡る話。

 

 

このように、本能と理屈は密接に関わりながらも時には対立する様が感じられる。

 

読むことで伝わる情報、例えば新聞や雑誌や週刊誌や各種書籍、もちろんブログも含まれる。

 

これらは、どちらかというと理屈の側からアピールすると言えそうだ。

 

それに対して本能の側からアピールする度合いが強い情報としては、映画(広い意味でシナリオがあったり、意図に基づく編集がなされる動画)、一瞬を切り取る写真、それ以外でもリアリティと臨場感が備わっているものが上げられる。

 

 

文字だけの小説であっても、数カ所挿絵があるだけで、理屈だけでなく本能に近いレベルの感情が揺さぶられることがあるし、挿絵など無くてもシーンによっては自分の脳裏に映像や音声が浮かぶ場合も多い、知識を超えて感情が動いたような場合は本能が刺激されたと感じられる。

 

そういう意味では、世間に出回る情報の多くは理屈と本能の両方にアピールするものだと言えるだろう。

 

多種多様な情報に接しているとごちゃごちゃになるのが、その情報を本能で処理してるのか、それとも理屈で処理してるのかということ。

 

自分の本能にアピールしてる情報を理屈で受け取り処理したり、理屈が刺激されただけなのに本能が揺さぶられたと勘違いすることが増えているかもしれない。

 

 

 

もっと大事なことは、同じ勘違いをしてる人達に周りを囲まれてるかもしれないということ。

 

同じ会社、同じ業界、同じコミュニティに属してると、内輪の論理や理屈に支配されることがある。

 

 

『今感じてる気持ちや思いは、本能が反応してるのか?、それとも理屈で反応してるのか?』、というのは本人ですら気付きにくいのが現代だ。

 

 

 

人間は本能で生きているのか?

 

それとも理屈で生きているのか?

 

 

考えれば考えるほど分からなくなる。

 

 

そんな時は、感じることが大事。

 

 

 

感じることを習慣付ければ、本能と理屈のバランスポイントが見つかると信じたい。