生きてる人にはその年齢なりの過去と、年齢に関係ない今現在や未来がある。
現在や未来は『ある』という意味ではすべての人に平等だが、中身はまるで違う。
その人なりの過去は、経験したり体験したりそれらを総合しての学習で成り立っていて、それは限りなく記憶に近いが、その記憶自体が時間の経過の中で実際の体験や経験と違うものに変化して行く可能性を持っている。
人間は環境の生き物だと言われる。
この場合の環境とは、大きく分けると①人間関係②住環境(生活環境)で、人間はこの環境の変遷や積み重ねに時間軸も掛け合わされて出来上がっている。
だから双子であっても時間の経過とともに違ってくる。
すべての人は違っているのだが、共通点や共感を求めたり、時には共有も許容する。
一人ひとりが皆違っているからこそ、同じだと感じられることや、似てると感じられることに価値を見出すのかもしれない。
人間が取る行動は、どんなことでも表現行為となる。
一人ひとりが違う存在である以上、その表現行為もまた一人ひとり同じように見えても実際は違っていて当たり前。
しかし、多くのケースで、人間のやることなんてみんな同じだと思われがちだ。
このような時、同じだと思われることは歓迎されない、違っていると思われたいのだ。
もちろん逆もある。
元々が違っているにも関わらずさらに違っていると思われたいというよりも、元々が同じだという思い込みでもあるのだろうか?
元々が同じならば、他人ができることは自分だってできるはずだと思いたくなるのは当然だから、再現性という概念は大事になる。
教えるや指導やマニュアルには、その通りにやればできるという再現性が求められる。
最近は個別指導という呼び方も広まってるが、この意味は相手に応じてやり方を変えるという意味なのか、それとも単に一対一であるだけなのか、再現性がどこまで意識されてるかよく分からない。
自分なりの他人とは違うオリジナルを求めることのスタートが、再現性を求めての模倣というスタイルであることは当然なのか、それとも不思議なことなのか。
『違う』と『同じ』はメビウスの輪のようなもので、濃淡というグラデーションのようなものなのかもしれない。