人間関係や力関係で答えが決まる場合には、答えは情緒的な存在になる。
多数決で答えが決まる場合には、答えは法律的になる。
答えにエビデンスや証拠が求められると、答えは理詰めで数学的になる。
情緒的な答えは都度コロコロ変わり、法律的な答えは時の流れに即応できない傾向が強く、理詰めで数学的な答えは答えとしては間違いがないがそれが当てはまる分野は非常に狭い。
人間の悩みの多くは未来に向かってのもので、多くというよりも全てと言っても良いだろう。
悩みには、悩んでもしょうがないこともあれば、行動の結果次第ではいくらでも変わり得るものも少なくない。
今はできなくても、なんとかしてできるようになりたい、そういうことの全てが未来に向けての悩みであり目標になる。
悩みや目標に対して、人は自然と答えを求めたがる。
自分一人で答えを模索する場合もあれば、自分から見て成功者に見える人の考え方や行動を真似しようとしたり。
インターネットが実用的に普及して20年、答えの模索としての検索が答えに辿り着くものではないと多くの人が悟ったことだろう。
それでも答えを求め模索するのが人間だとすると、次の行動はどうなるのだろうか。
答えが正しいならば再現性が高いはず、この考えを止める時期なのかも。
外部から入手できるのは答えではなく、せいぜいヒント。
そのヒントを踏まえて自分流のオリジナルに仕立て上げることが、自分だけの答えになる、その程度の理解がちょうど良いのかもしれない。
同じようなことをやっているのに結果が大違いということは世間には多い。
やってることは同じようでも、自分流にアレンジされてるか、真似してるだけかの差だ。
どんなに一生懸命探しても再現性のある答えなどどこにも落ちてはいない。