発明に対しての特許、
考案に対しての実用新案、
デザインに対する意匠や商標、
これらは、いずれも独占を主張するための権利であり法律。
つまり、独占というのは力関係であるとともに、それ以上に法律関係の上に成り立つものだ。
法律の裏付けがあっての独占には、利用に当たってフィーや手数料が発生するのがお約束だ。
これと正反対の世界観が共有。
必ずしもフィーや手数料が発生するわけではないし、要な部分に関しては無料で利用できることの方が当たり前だったりする。
概念としては分かりやすいが、法的な裏付けや定義は意外と曖昧で単なる呼称に過ぎない場合も多いことが独占との違いだ。
ITやプログラムが関係する世界ではオープンソースなどとも呼ばれる。
調べごとの世界では独占的なシェアを占めてるだろうのがwikipedia。
最近wikipediaを利用した方はお気付きだろうが最初に寄付を促す文言が出る。
分からないことを検索する場合に、wikipediaに該当項目があるかないかを最初に確認するという人は多いかもしれない、私はする。
ずいぶんお世話になってるwikipediaだが寄付とは無縁で、wikipedia利用者の98%を占める残念なユーザーの一人だ。
相反する独占と共有の関係性だが、共通点もある。
一つ独占した人は、別のものも独占したくなる、そして最後はすべてを独占したくなる。
一つ共有した人は、別のものも共有したくなる、そして最後はすべてを共有したくなる。
こんな姿がイメージできるという共通点がありそうな気になる。
勝ち負けに例えると勝ちを感じさせるのは独占だが、共有に負けのイメージがあるわけではない。
共有には大きく二通りある。
共有してる人が限定的に特定される場合と、漠然とした不特定多数を意味する場合で、前者は不動産の共有持分のように共有することが課税対象になるような場合。
前者のような共有は、共有と呼びながらも独占のバリエーションの一つだとわかる。
一般的には共有やシェアの対象は高級品ではないと考えられるが、かなりリッチな人であっても欲しいものを全部買うといのは困難なので、金持ち相手の高級品シェアサービスの需要は高いらしい。
共有やシェアは、利用者にとってはコストが低いことが魅力だが、それ以外に運営側にとっては危険人物の炙り出しがしやすいと言うこともある。
危険な人物は商品の取り扱いに関してトラブルが少なくないだろうから。
このように考えると、世の中の至る所にさまざまなリストがあることが想像できる。
WBC侍ジャパンにおける大谷翔平はまさに独占の象徴なのに対し、栗山監督や白井コーチの存在は素晴らしき共有の極みだったように思えてくる。
独占と共有は競合関係というよりも共存共栄という観点で捉えるべきかもしれない。