誰しも何らかの不満を抱えて生きている。
自分自身のことであったり、自分の周りのことで。
時には、自分とは、あるいは自分には、まったく関係ないことにも不満を感じることも少なくない。
そういう不満の矛先となる相手が具体的な存在であればあるほど、不満の根本原因の取り除きよりも、相手の失敗や不幸を願うことが増える。
なぜそうなるか?
溜飲を下げる、という表現がある。
ざっくばらんに言うとざまあみろだ。
『溜飲を下げる』も『ざまあみろ』も日本語の意味に近い意味に変換することはできるようだが、ズバリを示す外国語表現はないように感じられた。
ジャニーズ問題に関しての世間の動きや反応を見てると、この溜飲を下げるやざまあみろが強く感じられる。
背景にはこれまた日本的だが独り勝ちしてる強者に対する判官贔屓(≒強い立場を憎む)で、弱者側に強く感情移入してるように感じられる。
ただ、おもしろいことにジャニーズ問題に関する弱者は始まりはセクハラ被害を受けていた元アイドルなのだが、今では自らの不遇を嘆く気持ちを持ってる人の多くが、自分自身を被害者の側に見立てているかのようだ。
極めて日本人的な反応なのだろう。
日本人は無宗教だと言い張るくせに、神様は万物に宿っていると考えたがる。
あっちにもこっちにもそこかしこに神様を創り上げる。
良いことがあれば神様のおかげで、悪いことがあればやっぱり神様のせいにする。
つまり、無意識のうちに神様同士を闘わせているのだ。
格差の拡大や不平等が目立つようになると、自分には神様はいない、神様は自分を見放したと考えるが、自分のライバルや嫌いな人に不幸が起きると、やっぱり神様はいると思ってしまうのだ。
自分が良い目にあって幸せになるわけではないが、他人の不幸でも擬似幸せを感じられるのが日本人なのだ。
この特性が、赤信号皆んなで渡れば怖くないに繋がりそうだ。
根本的に問題を解決するよりも、生贄をつくる方が皆んながまとまるのだ。
令和になったが、日本人の大好物はざまあみろのままなのだ。