『どこ見てんのよ‼︎』というギャグで一世を風靡したのが青木さやか、調べると2003年のことだった。
他人から好奇の視線を浴びることを生業にしてる有名人でも、プライベートで浴びる視線にはウンザリするらしい、多くの場合好意的な視線だろうが。
視線や目線というのはトラブルの元になることが多い。
ガンをつけるとかガンを飛ばすというのはケンカのきっかけの定番だ。
興味深いのは、見るからケンカが起きるわけではなく、見られたからケンカは起きるのだ。
では、見る側は何を見ていたのか?
『あっ、獲物がいた』、そういう目で見ていたとしたら、その思いが瞬時に相手に伝わっても不思議はない。
自分よりも先に相手が気付いたことに怒りや悔しさも生じるだろうが、これは原始的野生的な反応でもある、きっとDNAのなせる術だろう。
見る見られるに関する話はもう少し拡大解釈もできる。
秘密やトクダネ、あるいはアイデアなど他人にはバレないようにしていたものがバレるのではないかという不安や心配に繋がるだろう。
あるいは、追われる立場の人で、警察や以前所属していた組織あるいは対立する組織から逃げている人も同じ思いになるだろう。
自分を追ってくるものの存在には相手より先に気付きたいと目を凝らすだろうが、自分が見てることに気付かれてはいけない。
つまり、ハッキリとこちらに視線を向ける人がいれば、その人は少なくとも堂々としているのだ、このような場合ありがちなのは相手はこちらが自意識過剰にならなければいけないほどこちらのことを意識してるわけではない。
これはごく普通の人にも起きる反応だ。
ではなぜごく普通の人でも自意識過剰な反応をするかというと、なにかしらのコンプレックスや被害妄想を抱えていたりするからだ。
いつの頃からか、無用なトラブルを避ける処世術としてジロジロ見ないは当たり前になった。
しかし、見たいものはある、できることならジロジロ見たい。
そのためには別の能力を鍛える必要がある。
ジロジロ見てることを悟られないように見るというのは尾行術に通じるだろう。
チラッと見て察する能力も役立つ。
見られたがってるように思われてる人でも、見られることには拒否反応を示すことが多い。
表面的な行動では自己顕示欲が強そうでも実際にはかなりナイーブな人は多そうで、SNSのブロックなんてその表れだろう。
人の本音は、見られることに対する反応に表れることも多そうだ。