違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

自由の反対語は『指示待ち』

次のYouTubeに刺激を受けて書いている。

 

youtu.be

 

 

この中で養老先生が『人が自由にやってることが気に入らないんですよ』と言っている。

 

どういう文脈で言っているかが気になる方はぜひYouTubeを見て頂きたい。

 

ただ、わたしはこれは多くのことに当てはまるのではないかと感じた。

 

自由というのは今や権利としては基本中の基本で誰だって持っているし与えられている、少なくとも現代の日本では。

 

そして、『自由とは不自由である』という哲学的な解釈もなんとなく理解してる人も多いはず。

 

自由の反対語には束縛、統制、専制などがある。

 

自由が不自由であるのは、束縛や統制や専制に抗うことでもあるからだ。

 

束縛や統制や専制があるからこそ忖度が成立すると考えると、表面的な自由は約束され保証されてるとはいえ、それは自分が望む自由ではないと思ってる人が多いかもしれない。

 

だから、自由に振る舞ってるように見える人が妬ましく、そういう人の邪魔をしたくてしょうがなくなるのかもしれない。

 

 

哲学的な解釈としての自由が不自由であるということは、自由は自己責任だということでもある。

 

しかし、自由に見える人を妬む心の持ち主は、自由はお金がなければ得られないとか、自分には不足してる要素があるが故に自分は自由ではないと感じてる気がする。

 

 

ネットを検索すると、『自由が嫌い』という人たちが少なくないことが分かる。

 

そして、そういう人たちは『自分の好きなように行動して良い』と言われることが苦痛らしいのだ。

 

好きなように自由に行動して良いというのは、最も嫌なことを指示されることと同じらしく、指示は具体的にあれをしろこれをしろと言って欲しいらしい。

 

 

自己啓発の世界では、指示待ちは改善すべきと、大きなテーマになっている。

 

指示を待ち、指示を求める人は、ほぼ間違いなく自由が嫌いなはず。

 

行列に嬉々として並ぶ心理とも共通してそうだ。

 

 

最初から自由が嫌いだった人もいるかもしれないが、自由に行動した結果芳しい結果が得られないことが続き、自らが選択する自由に自信を失ったという人もいるだろう。

 

 

Twitterを検索してると次のような話があった。

 

学校活動の一環でキャンプをすることになり、生徒にテント設営をさせるはずが、若手の教師でそのことを生徒に指示することができず、指示待ちの生徒が周りを取り囲む中一人黙々とテントの設営をするという話。

 

おそらくこの教師も、生徒にどういう指示を出せば良いのかという指示待ちだったのだろうが、それが分からないから自分で動いたのだろう。

 

自ら行動することは能動的で自由を感じさせるが、この教師の行動には能動性も自由も感じられない。

 

 

冒頭に戻ると、自由が嫌いで指示待ち人生を歩む人だって心のどこかでは自由を求めてるが、その思いは自由に行動してそうな人を妬み憎むという形で発露してるのかもしれない。

 

 

そしてそういう人は、今の日本では過半数かもしれないのだ。