違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

「自分の人生という舞台」のキーワードは何か、そして観客は誰か?

どこに興味や関心を持つかで行動が変わる。

 

一見同じ価値観を持ってるようでも、世界観は違う。

 

「やがて分かること」というものがある。

 

つまり、最初は気付かないが、時間の経過とともに気付くことがあるということだ。

 

気付くというよりは、関心がシフトすると言ったほうが当てはまるかも。

 

ドラマや映画を見て、最初に関心を持つ対象は、俳優や背景を含めたシーンだろう。

 

つまり、見えるものへの反応だ。

 

いい作品だと、感情移入しながら見る。

 

主役に自分を重ねたり、時には脇役が自分に思えたり。

 

自分が主役になりきってる時には、敵役を憎んだり。

 

敵役を演じた俳優が嫌いになったりもする。

 

 

 

そして気付くことがある。

 

「ああ、あの脇役が主役を引き立ててたんだ。

 

あの脇役がいなかったら、見た目がいいだけの主役は薄っぺらいだけの存在だったかもしれなかった」と。

 

他の作品を色々見て、比較することで気付くことがある。

 

俳優の演技が、演出されているということに。

 

演出は、俳優自身の感性に基づく場合もあるだろうが、多くの場合、監督や脚本家の感性に依るだろう。

 

 

演出というと演技指導のようにも感じるが、広義にはカメラに映るもの全部に対するこだわりと言えよう。

 

 

映画やドラマを見ていて、このこだわりが、撮影機材や撮影を取り巻く技術の進歩に反比例して、減っているのではないかと感じている。

 

減ってるというより、無くなったと感じるものが増えている。

 

 

 

「ブラタモリ」の裏側は現場力を持った最強チームが作っていた。

 

リーマンショック以降、予算削減が質の低下を招いたように言われるが、多分違う。

 

足を使ったり、汗をかくことで得られる違いを評価する空気が徐々に現場から消えかかっていた頃に、リーマンショックが発生し、とどめを刺すように予算が削減されはじめ、すべてそのせいにしてるだけだろう。

 

 

 

面白いと思う作品は、舞台の要素が脚本や演出に感じられる作品だ。

 

 

観客の息づかいを感じれる距離に作り手がいることが大事なのかも。

 

 

 

そういう意味で言うと、最近の漫才は、もはや舞台かも。

 

脚本、演出が生み出す面白さを、漫才師がこなせるか?

 

漫才師のキャラを活かせる脚本、演出になっているか?

 

どちらが欠けても生き残れないだろう。

 

 

 

接客のしごとをしてる人にも当てはまるかも。

 

客の評判が良い人の行動には、見習う点が多いだろう。

 

自分が求められている役を演じるという意味での自分なりの脚本が存在し、相手(客)が何を望んでるかを見抜いて、ふさわしい行動を取るという意味での演出がなされているはずだ。

 

 

 

 

”自分の人生 ”という舞台の主役を見事に演じ切るために必要なことはなんだろうか?

 

その時、息づかいが感じれる距離にいる観客は誰なのだろうか?