アメリカの大統領選にトランプさんが立候補していた2016年に見つけてその後ずっと気になってる記事がある。
この記事が書かれたのは2014年。
今のアメリカは、アメリカンドリームを感じさせたアメリカと同じなのだろうか?
アメリカの人々の日常的心象に非常に興味深い影響力と補足力を持ってきた「アメリカン・ドリーム」ですが、アメリカにおけるこの言葉の使用に近年顕著になってきたのが、ネガティブな言葉との組み合わせです。新聞・雑誌記事や書籍、オンライン上で「American Dream」という言葉を検索してみると、それに付随するのは「終焉(end)」や「衰退(decline)」、「絶望的な(hopeless)」や疑問符(?)等々です。
今もそのまま当てはまっているだろうか?
この記事を見てしばらくした頃、ビジネス界のアメリカン・ドリームの代表格のようなシリコンバレーの過酷な現状を記事にしたものを読んだことがある。
シリコンバレーでは、年収1000万円クラスだとまともな生活ができず、自分の家や部屋すら持てないホームレスがゴロゴロいるという話だった。
誇張されてる部分はあっても、景気が良いことが即物価の上昇につながると生活は過酷になるということは、日本のデフレがいかにありがたいかを感じさせるのに十分だった。
私の脳内ではアメリカン・ドリームというと、全く無名の新人がオーディションで見出され一躍スターになるようなことをイメージする。
以下はアメリカン・ドリームについて語っていてもアメリカの話ではなく、むしろ日本の話。
日本の芸能界にもこのようなオーディション形式の登龍門が昔はあって、審査がオープンに公開されていた頃があったことを覚えている。
オーディションという呼ばれ方をすると芸能界の雰囲気が漂うが、他にも入学や入社にあたっての面接やビジネスにおけるコンペやプレゼンもオーディションと同じだが、どれもいつの頃からか名ばかりのものになり、真に競うとというよりも出来レース的なものになってしまったように感じられる。
アメリカですらアメリカン・ドリームが遠くに感じられるようになったことと日本の状況はリンクしてるように感じられる。
吉本興業を巡るドタバタ劇が一向に終息に向かわずに、次々と出る芸人の不満があるかと思えば、強く不満を口にした芸人がすぐにトーンダウンしたり、直接の利害関係者以外も多様なビジネスと関連づけて経営論を語ったりし続けている。
本当に面白い芸人なんて私の目には10人から20人程度しかいないが、今回のドタバタで吉本興業だけで6000人もお抱え芸人がいると分かった。
つまり、芸人としての競争は過酷だろうが、芸人になることに関しては競争原理は働いていないのだ。
またお笑い以外の分野(歌舞伎などの世襲制は除く)では、有名人の二世や三世などばかりが目立つのも入り口で競争原理が働いてないことを強く感じさせる。
一方、京都アニメーションの放火事件をキッカケにアニメ業界の構造を少し知ったが、過酷でありながらもお笑い業界と違い、入り口である程度の選別がなされていることも分かった。
アメリカン・ドリームは入り口が過酷で、求める側には強い理想があり、応募する側は実力以上の運や偶然も味方にできて初めてアメリカン・ドリームとして機能する。
アメリカン・ドリームのように、デビューと同時に主役で花形というケースはほとんどなくなったが、役者の世界で言うともともとは脇役や悪役で出続けた人達が、意表を突いた演技で主役以上の存在感や人気を示したりすることは珍しくなくなっている。
分かりやすいので芸能界で説明したが、一般のごく普通の世界でも似たようなことは起きているだろう、今進行中なのは多様性。
競争原理が働かない世界(良く言うと安定した世界)では基本は誰がやっても大差ないので、持ち時間を無難に消化することだけが関心事になり、オーディションが機能せずに二世三世が跋扈したり、出来レースが展開されたりする。
アメリカン・ドリームが消えた世界で消えているのは競争原理なのかもしれない。
不思議なことに、皆自分が一生懸命競争してる気になっているが、よく考えると競争相手を具体的にうまく説明できないのではないだろうか。
あったはずのアメリカン・ドリーム、これからもあり続けるであろうと思っていたアメリカン・ドリームが消えかけていると言うことは所与性の喪失を意味し、そのことに多くの人が戸惑っているように感じられる。
大きいことである必要は無い、自分なりのアメリカン・ドリームを持てることは重要になるだろう。