違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

突然気付かされる変化

GWで大混雑や大渋滞の映像を見てると人も車も溢れかえってるイメージを持つが実際には日本の人口は減少し始めている。

 

イメージと実際のギャップがあるのだ。

 

 

気付くきっかけの一つは自転車界の動きにあった。

 

自転車=スポーツという認識のわたしには多少の知識はあっても理解が追いついてない部分があった。

 

売れてることは知っていたし、スーパーなどを通りかかれば電動アシストの買い物自転車ばかりだなとは思っていたが今や自転車全体の過半数になっているのだ。

 

経済産業省の統計(一部の輸入車を除く)によると、2022年の電動アシスト車の国内販売数は79・5万台と、初めて一般の自転車(69・7万台)を上回った。販売額は一般車の5倍超の744億円だった。

 

 

その推移をグラフ化すると、

 

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上記のグラフは下記サイトより引用

 

https://www.meti.go.jp/statistics/toppage/report/minikaisetsu/hitokoto_kako/20210728hitokoto.html

 

 

自転車に乗っていた人の買い替え需要を電動アシストが一手に担っているのだろうと思ってしまう。

 

しかし、

 

同じく経済産業省のデータによると、原付市場が電動アシスト市場に食われていることが感じられる。

 

 

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グラフの引用は下記サイト、このサイトのデータによると自動二輪車は原付のみが急減し、原付より排気量が大きい市場は微増が続いている。

https://www.meti.go.jp/statistics/toppage/report/minikaisetsu/hitokoto_kako/20230623hitokoto.html

 

 

同様のデータを車に関して見るとどう思うか?

 

昔だって現在と変わらないくらいの渋滞はあった、ような気がする。

 

しかし、車の台数を見るとあまりにも違う。

 

道路のキャパシティも拡大していたことが感じられる。

 

 

表は下記の日本自動車工業会のサイトから引用

https://www.jama.or.jp/library/publish/mioj/ebook/2023/MIoJ2023_j.pdf

 

 

電動アシスト自転車市場が原付の市場を侵食したような変化が自動車にも起こるだろうか?

 

ごく一部では自動車市場の一部を食い始めているかもしれないが、まだまだ自動車でなければいけない理由がある、最も大きいのは全天候型であることと積載量、それに加えて安全性だろう。

 

かつて若者はスポーツカーに憧れるものだったが、現在ではスポーツカーどころか車に興味がないというのが最も層として多いとすら言われる、そういう人は車を選ばざるを得ない時どういう理由を掲げるのだろうか。

 

大した変化が起きてるように見えない日常だが、変化は静かに着実に進んでいて、ある日突然変化に気付かされるのだ。

 

動機の形成はマンガやアニメから

いつの頃からか変な髪型と思う人が増えた、ジェネレーションギャップと言われればその通りだろうが、そもそもその髪型の由来はどこと思った時にふと思い出した。

 

昔だってマンガの登場人物や芸能人のスタイルを真似ようとしていたなと。

 

似合うかどうかよりも、真似したいという衝動に突き動かされていたなと。

 

 

Wikipediaの日本の漫画の歴史を見てると、日本人のメンタリティにマンガが影響するようになったのは1950年代からだと感じられる。

 

つまり、自覚の有無に関係なく現在生きてる大勢の人がマンガから何らかの影響を受けているはず。

 

車の発達普及はモータリゼーションの発展の当然の帰結だと思われてるが、実際にはマンガの世界が与えた影響の方が大きいように感じる。

 

1975年から少年ジャンプで連載が始まった『サーキットの狼』がスーパーカーブームを生んだ。

 

カッコいい車やお気に入りの車で演出する生活に魅了される人が増えた、それに合わせてそんな生活を実現するために何が必要かを意識するようになった。

 

マネーマネーとなる風潮の原点にはシンプルな理屈がある。

 

上記で例に挙げた車の部分は、家や時計や宝石などを含め何にでも置き換え可能だが、具体的なイメージを描けることが重要で、その役目をマンガが果たしていたはず。

 

ロボットマンガがきっかけで理系の最先端を目指し始めた人は多かったし、目指すことは具体的だったはず、具体的なイメージをマンガが提供したからだ。

 

マンガに限らずストーリーがあるところには脚本という意図がある、それが上手に仕掛けられるからイメージが具体的に伝わる、もちろん絵そのものの上手さや巧みさも必要になる。

 

例えばメガネ。

 

昔は賢さの演出にメガネが欠かせなかったし、同時にメガネを掛けた子は運動が苦手でどんくさいというイメージを表現していた、やがてコミカルなイメージや独特なおしゃれの要素として重要な小道具になり、マンガのイメージが先行してその後実際のメガネ市場に影響を与えるようになった。

 

同様のことは生活や生き方というライフスタイルにも及んでいる。

 

影響は大きいが、マンガから影響を受けていると認識してる人はどのくらいいるだろうか、意外と少ないかもしれない。

 

なんでも描けるマンガの世界だが、現実社会のルールを大きく逸脱したものは現代では受け入れられないので、かつてのスーパーカーブームの頃のような車が疾走したりバトルを描いてももはやリアリティがないだけだ。

 

今さらながら漫画家の中でもレジェンドとなる人種は具体的なイメージを描く達人だと分かる。

 

想像力だけが豊かでもまったく成立しないのだ。

 

 

生き方に悩んでる人は、マンガを検索するというのもアリかもしれない。

 

自己満足だとしても侮れない効果があるかもしれない。

 

一般名詞化した『推し』

初対面にはカジュアルな場とフォーマルな場がある。

 

初対面の場では自己紹介や簡単な質疑応答が付きもの。

 

カジュアルな場でもフォーマルな場でも共通して使える問いに『趣味は何ですか?』があるが、この質問は今やフォーマル化している。

 

万能過ぎるがゆえに真意を伝えきれない。

 

カジュアルな場では、『推しは何(誰)ですか?』の方が一般的になりつつあるようだ、年齢等の壁や境界はあるだろうが。

 

よくよく考えると、『推し』に相当する名詞化された表現は長らく無かったような気がする。

 

『趣味』では表現しきれないニュアンスが『推し』には感じられる。

 

わたしは〇〇のファンです、わたしの趣味は△△です、のように文で表現していたはず。

 

ごく一部では名詞化した表現としてオタクや撮り鉄のようなものがあり、わたしはオタクです、趣味はオタクです、わたしは撮り鉄です、趣味は撮り鉄です、と言えばほぼ間違いなく伝わるというものは以前からあったが。

 

 

今やすべてを引っくるめて応援してる人や趣味や好きなものは『推し』で代替可能になっている。

 

違和感がつきまとうとすれば語感や響きに対してだろう。

 

ところで、『推し』という概念が生まれたことによる最大のメリットとして、これまで何となく存在していた推される側にならないといけないという呪縛からの解放があるように感じられる。

 

『推し』が一般名詞化したことでファンとの関係性が対等になったように。

 

それまで推し的存在にあったヒエラルキーの上位という概念が薄らぎ、推しの側も意識が変化したのではないかと感じられる。

 

その変化を受け入れられないとアイドルであっても推しにはなれず、活路は風俗や反社になるのかもしれない。

 

推しが一般名詞化したことで、ヒエラルキーの下位に位置していても何のコンプレックスも無ければ、むしろその方が充実してるとさえ思えるようになったのかもしれない。

 

推しは、自分がその気さえなれれば何にだって当てはまり、そのことで心が安定するのだ。

 

推しは独り占めするものでもなければ奪われたりもしないから。

 

 

あなたの推しは何ですか?

おまけにそそられる心理

カーブスを抜いてフィットネスの店舗数No. 1はチョコザップらしい。

 

カーブスはそれなりにヒットしてもおかしくないなと感じていた、それはターゲットが元々運動習慣が無い人をそれも女性に限って展開していたから、さらにCMを見るとおまけとして井戸端会議の楽しみもありそうだし。

 

男性ややる気満々の人が来ないことが大きな安心につながると思ったから。

 

一方で、チョコザップはというとジムとしては小規模だから本格的なことをやりたい人には不向きだが、すべてのニーズを受け容れるというスタンスでありかつおまけの要素も多いのだ、ホームページには次のような画像が載っている。

 

 

 

絵だけ見ると女性がターゲットにも思えるし、そういう意味ではカーブスをライバルに想定していたと思える。

 

 

昔、知人で自宅近くのスポーツジムに行ってる人が、ジムで毎日シャワーを使うので自宅の水道光熱費の節約になるからコスパは悪くないなんて言っていた。

 

肝心の運動や筋トレはというと推して知るべしのレベルだったが。

 

そういう意味では、チョコザップがおまけで運動や筋トレ以外の要素の抱き合わせを多数展開してるのはユーザー層をよく理解してるからともいえそう。

 

そのうちチョコザップからトレーニング要素が無くなるのも時間の問題かもしれない。

 

チョコザップのユーザーの意見を見てみると、基本が無人店舗のせいか器具がきれいではないという指摘が多い、この辺はコスパとトレードオフの関係にあるのだろう。

 

 

フィットネスという分野は意識高く見えるので、本当の目的がおまけの方であっても周りからはそうは見えてないというのはメリットになるのかもしれない。

 

得をしたいという心理は、メインよりもおまけに魅力を感じさせるのだ。

 

逆に、メイン重視で軸がブレない人にはおまけでコスパの良さをアピールしてもあまり響かないはず。

 

 

今の日本にはおまけの方が好きな人が多いのかもしれない。

 

詐欺の被害者になることはあっても詐欺の加害者になるなんて思ってない人がなんと多いことか

守れなかった約束や果たせなかった誓いの一つや二つは誰でも持ってるかもしれないが、その約束や誓いに相手がいた場合に相手はどう思ったか、あるいは自分自身がその相手側の体験をした場合にどう思ったか、最近の出来事でなければどちらにしても忘れてしまってるかもしれない。

 

しかし、どちらの体験であっても、そして実害は大したことなくても、忘れられない場合は、喉に刺さったままの魚の小骨のような後味の悪さをずっと伴っているはず。

 

 

そんな守れなかった約束や果たせなかった誓いには以下のようなものもある。

 

営業トークやプレゼンテーションや口説きやプロポーズで、はたまた演説や宣言の際についつい言ってしまったこと。

 

ウソを吐く気も無ければ悪意なども無い、あくまでも熱意の表れとして言ってしまったようなこと。

 

 

しかし、その熱意に打たれてその言葉を信じた人はきっとこう思うだろう、『奴に騙されたよ』と。

 

しかし、警察に被害を届けられるような種類ではない、そういう騙され事は世間には掃いて捨てるほどある。

 

だから、『奴に騙されたよ』と自分が言われているとは気付きにくい。

 

逆に、きっと『奴に騙されたよ』と思われてるだろうなと思っていても、そんなこと思われてない場合もある。

 

 

現実の社会では約束を守れと求めても、それが口約束ならば恐喝扱いされる場合もある。

 

約束を守らない相手を詐欺師呼ばわりすると名誉毀損扱いされる場合もある。

 

 

被害者のつもりでいたら、いつの間にか加害者にされているそんなことすらあり得るのだ。

 

 

クワバラクワバラ。

浅い関係性という底なし沼

さっそく4月入社の新人の退職の話題が記事になっていた。

 

理由の一つとして飲み会がイヤだというのが挙げられていた。

 

いまだに一発芸を要求するという文化もあるようだ。

 

 

そこで飲み会に限らずざっくばらんな集まりの場で流れる空気について考えてみた。

 

一緒の時間を過ごす以上有意義な時間にしたいとは誰しも思うだろう。

 

悩みや近況を含めて聞いてほしい話や言いたいことがある人にとっては悪くない時間になるはずだ。

 

そうではない場合はどういう時間を過ごすことになるだろうか?

 

共通のテーマや話題がある場合も悪くない時間が過ごせるだろう。

 

共通のテーマや話題が無いのにざっくばらんな時間を共に過ごそうとするのは改めて考えるとおかしな話だ。

 

しかし、日本には昔から多い、いや昔の方がはるかに多かったはず。

 

共通のテーマや話題が無いのに話題を探そうとすると、その場にいない人の人事情報や個人情報やウワサだったりという共通ネタが便利だろう、中にはその場にいる人の中にネタにされる人が出るだろう、ネタにされた人がそのことを楽しめるなら楽しい時間になるだろうが、そうでなければ苦痛なだけ。

 

日本でざっくばらんと称される集まりや飲み会文化は、浅い関係性によって支えられているような気がする。

 

浅いというのは、心の底では相手に対して興味がないが何らかの利害が発生している関係だ。

 

利害の中には上下関係や主従関係や血縁関係も含まれる。

 

浅い関係性というと今が旬の事件でもキーワードになっている。

 

 

「官兵衛」子役逮捕 赤星憲広氏は容疑者間の薄い関係に驚きと私見「弱みを握られている関係性なのかな」

「正直、関係性が結構浅いんですよね。今年になって知り合ったとか、この2人に関しても年末からとか。たとえばこの短いスパンで知り合いになって、お酒を飲む仲だったとして、こんなことをお願いして実行できるような関係性かといったら、そんなに深い関係じゃないはずなんです」

~~引用ここまで~~

 

 

浅い関係性があるならば深い関係性もあるだろうが、改めて考えると深い関係性って社会からどんどん消えてるような気がする。

 

深い関係性とは関係の濃密さゆえの束縛の強さとセットのはずで、それは血縁など断ち切れない関係性を意味していたが、そういう意味ではとても薄い関係性にも関わらず共犯関係あるいは依存関係のような逃げられない関係性ゆえの束縛の強さにシフトしているとすれば、浅い関係性というのはとても怖いのだ。

 

浅いはずの関係性が人生を台無しにする底なし沼になることが珍しくない時代になっている。

 

 

浅いからと簡単に足を踏み入れてはいけない世界があるのだ。

『コト』の次は?

インバウンド客で盛り上がる次のGWの話題、事の是非を語りたいわけではない。

 

 

「富士山ローソン」黒幕設置 対面歯科が長文声明「考えられないマナーモラル違反」「残念」

撮影スポットとしての口コミが、外国人観光客やタイの俳優らによって拡散。観光客が殺到した結果、ローソンや車道をはさんだ同医院の近隣で、交通の危険やごみの問題などが発生し、店舗営業や住民生活に悪影響が出ていた。

~~引用ここまで~~

 

 

コロナ前からずっと世界的にモノ消費からコト消費へ関心は移っていると言われていたが、記事のような行動はモノ消費なのかコト消費なのか。

 

直接の動機が富士山を直接見て写真に撮りたいという意味ではコト消費に感じられるが、近隣への迷惑としてゴミの散乱があることからはモノ消費のようにも感じられるからだ。

 

コト消費やモノ消費と区別する必要などないし実際にはどちらの要素もあるのだろうが、少し突っ込んで考えてみたくなった。

 

 

物質的な豊かさを求める気持ちがモノ消費を支えたが、モノが溢れるようになると、さらなる差別化のためにあるいはより豊かな気持ちを得たいと体験や経験の方に価値を感じる方向にシフトしているとされている。

 

体験や経験はそれだけではモノではないからカタチで示せないが、写真や動画のような記録があればモノに代替できると考えると、コト消費はモノ消費と切り離せないなと感じられる。

 

最近の推し活は従来のファンとどこが違うか?

 

メンタリティ的には違いはありそうだが、活動や行動を比較するとさほど違いを感じない、コト消費とモノ消費の混在によって推し活もファンも成り立っているからだ。

 

 

ところで〇〇ブームと呼ばれる現象はしばしば起きるが、ブームが終焉する際に暗くなるのはモノ消費の場合で、過剰な在庫が経営を圧迫し株価が下落などと話題になる。

 

コロナ明けでは、終わったブームとして聞いたのがスニーカーブームや自転車ブームやアウトドアブーム。

 

自転車ブームやアウトドアブームは体験型のコト消費のようでもあるが、どちらも在庫や値下げが話題になるという意味では課題はモノ消費として起きる。

 

よくよく考えるとコト消費と呼ばれるジャンルで、コトのみで成立するものはどのくらいあるのだろうか?

 

モノ消費に対するコト消費と別ジャンルのように扱うことで、新たなブームが発生し関連するモノが市場で売れる。

 

ブームが終焉すると関連するモノは中古市場に流れてくる。

 

ブームに乗って手に入れたモノを手放すからで、ブーム終焉後だと価値は二足三文になるので尚更終焉感が強くなる。

 

 

ブームの前には新しく消費を刺激するキャッチフレーズが有効だ。

 

 

コト消費に代わる何かはすでに準備されていて出番を待ってる状態かもしれない。