違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『ブランド』をつくるためには『ペルソナ』が大事

23日土曜日に街と郊外の大規模モールに出かけた。

 

すごく大勢の人々で溢れていた。

 

土曜日は天皇誕生日で祝日だったこともあり、ネット上では全国的に繁華街は人が溢れて景気が良くて結構なことだと捉えた話が多かったが、私が受けた印象は全く違った。

 

景気が良く見えたというのは、人手の多さが与えた印象で、おそらく売上も大きのだろう、そこには同意できる。

 

感じた違和感は、あまり結構な話には感じられなかったからだ。

 

スーツ姿だと案外気付かないのかもしれないが、カジュアルな格好をしているとなぜか内面が透けて見えるような気がするし、姿勢や体つきという外見にも生き方が表れるような気がする。

 

ただの印象論なのだが、老若男女問わず足取りが弱く、姿勢が悪いという印象をいつも以上に受けた。

 

 

祝日とクリスマスが重なってるのだから、楽しい浮かれた1日のはずなのに。

 

普段目にしてる人達と種類が違う人達が街にあふれていたのだろうか?

 

この違和感の正体は、大前研一さんが言ってる次のことかもしれないと感じた。

 

若者の外出離れ 実に憂うべきデータだと大前研一氏

近年は「イオニスト」や「ららぽーたー」など、いつも地元のショッピングモールに行き、そこ1か所で日々の暮らしを完結させる若者の増加が話題になっていた。イオニストは「ABCマート」「しまむら」「ニトリ」などイオンモールに出店している店で収入の48%を使うというデータもある。

 

彼らは自宅の半径20km圏内だけで行動し、社会人になっても中学・高校時代の友人や仲間が交友関係の中心で、その人たちにしか関心がない。そういう内向きな生態系がスマートフォン、SNS、ネット通販の利用が広がったことによってさらに縮小する方向に進み、出不精な若者が増殖していると推察されるのだ。

 

 

 

 

この違和感を考えていると、いままで何度聞いてもピンとこなかったGDP(国内総生産)という単語が急に頭のなかに降って湧いてくるような気がした。

 

GDPに計上されるのは表の世界のお金の流れだけである。

 

経済やビジネスに興味や関心を持つと、需要と供給は、別の要素として区別して扱うが、GDPという見方をする場合は、需要と供給の区別をしないで、どちらもGDPにカウントされる。

 

インフラを整える社会の基幹ビジネスが普及した後、”快適や便利やおいしいや楽しい”を皆が求めるようになり、これらに関連して発生する需要と供給がGDPを押し上げた。

 

休日に外出し、楽しい時間を過ごそうとしてる人の多くは世間的には健康と言われてる人達のはずだ。

 

そんな人達が振る舞う姿に忍び寄る不健康を感じたことで、その次の段階としての健康ビジネスや病院や薬や介護などがすべて一連の繋がりを持っていることが実感できたことで巨大なGDPが急に身近なものに感じられてしまった。

 

健康に明らかに問題がある人は、そもそも外出頻度が少ないので、その姿を日常あまり目にしないだろう。

 

バブル崩壊後ずっと不景気だという実感とは裏腹に日本のGDPは上昇し続けている(上昇率はともかく)。

 

多くの一般人が興味や関心を持つ分野は不景気でも、興味や関心を持ってない、よく知らない分野では大きくお金が動いていることが想像できる。

 

 

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http://ecodb.net/country/JP/imf_gdp.html

 

 

数字としてのGDPを見てると気づかないが、GDPを構成する内訳に目を向けるとずいぶん変化してるのだろう。

 

 

GDPの中には、喜べない費目の増大も隠れている

 

GDPを構成する「売れるもの」には理由がある。

 

一般的には、良いと思うから買う、安い(お得、リーズナブル)だと感じるから買うというのが一般的だが、ここでは行動の主体は自分自身であるが、最近そこが変わってきていることを多くの人がなんとなく感じているだろう。

 

他人が良いと思ってるもの、誰もが良いと言ってるものを選ぶ傾向が顕著になっている。

 

こうなった背景には、どれを選んでも差がないし、特に欲しいものがあるわけではない、でも買いたい、買う必要があるという人が増えてるからだろう。

 

かつてブランドは高級品を示すアイコンだったが、現在ではハズレがないというアイコンになっている。

 

 

ブランドは、最初は作り手であるメーカーの考えや行動が商品に反映されることで成立し、カッコよい商品を使う人はカッコよくなれると思われることで評価される。

 

そして、最終的にその評価が定着する場合は、ユーザーであるブランド利用者の属性が商品の評価に大きく影響する。

 

『使ってる人がかっこよければ、商品もかっこよく見える』ということが起きる。

 

つまり、メーカーが作ったブランドだが、そのユーザーの属性がブランド価値を決めるようになるということが起きる。

 

商品の存在意義には大きく2種類が存在し、それが買う理由になる。

 

  • 必要だから
  • 好きだから

 

この二つ以外の理由は、こだわりの有無で変わってくる。

 

”必要だから”という分野は、多くの場合資本力がものを言う。

 

 

これからの時代は、”好きだから”に活路が見出だせるはずだ。

 

”好きだから”という理由で選んでもらえるためには、そしてその評価を確実なものにしようと思うならば、意識しなければいけないことがある。

 

  • 使う人は誰か?
  • その人はどんな価値観の持ち主か?

 

この二つを具体的に考えることは案外難しい。

 

私も、これまで買ってくれるなら誰でもいいと思うことが多かったし、何かをプレゼンするときは汎用性を保つことを重視してきたが、そういうスタンスはこれからは通用しないだろう。

 

この二つを総合してマーケティング業界では”ペルソナ”と呼んでいる。

 

今さら聞けない!「ペルソナとは」基礎知識とその重要性について

ターゲットは人物像をやや幅を持たせて設定するのに対し、ペルソナは人物像をリアルに設定していきます。

 

マーケティングに有効な手段である「ペルソナ」設定ですが、精度が低ければ効果的ではありません。

 

 

私という人間がどんな人間かを決めるのは、まわりにいる他人だと言われる。

 

つまり、自分で「私は○○○な人間です」と言っても、周りの人がそう思わなければ○○○だとは思ってもらえない。

 

ペルソナの不思議なところは、他人の詳細なキャラクターを赤の他人である私が作るというところにある。

 

自分のキャラは自分で作れないが、他人のキャラは作れると言うのは考えてみると面白いかもしれない。

 

一度本気で試してみる価値がありそうだ。

 

相手のペルソナを設定し、自分のブランドを確立するということが個人に求められる時代になっている。

 

 

心が疲れてる人は体を動かせ!

CMに狙われる「80年代のオジサン」たち。

広告を見ていると、ターゲットを読む癖がある。癖、というよりは半ば仕事だ。ことにTVCMはタレントや音楽などの情報量も多く、良くも悪くも「マス」を狙っているために、戦略が見えやすい。

 

 

TVCMは直接ターゲットにリーチすることを目指すわかりやすさがある。

 

ターゲットとして狙われるのは、

 

  • お金を持ってる人
  • その商品の属性とリンクする人

 

直接エンドユーザーにターゲットを設定しているというわかりやすさが必要になる。

 

食べ物やお菓子だったら、美味しそうに見え、少し新しさを感じさせるような要素を盛り込みながら。

 

以前は直接危機感を煽るようなCMが多かった気がする薬のCMでも、わかりやすさは重要になってるようで、そのわかりやすさは「あなたの悩みはこれではありませんか?」と優しく寄り添うように危機感を煽るようになっている。

 

そこでは、悩んでいるのは自分だけではないんだと思わせる工夫が為されている。

 

あるいは、ノスタルジーにアピールするように演出されたり。

 

これらは、直接のターゲット以外にも間接的に影響を与えることがある。

 

ノスタルジーを掻き立てるように作られた映画"三丁目の夕日"を見た平成生まれの子供の中には昭和の体験がないにも関わらず、「なんだか懐かしいね」と反応する子がいたらしい。

 

冒頭で引用した記事では、バブル時代を謳歌した世代をターゲットにしたCMを茶化しているのだが、違う世代には違うメッセージになっているはずだ。

 

マネー系の雑誌というのがある、投資ジャンルから家計の無駄の見直しまで幅広く取り扱うが、この手の雑誌を見るたびに、「お金は気になるかもしれないがこの雑誌で何が解決するのだろうか?」と感じる人は多いだろう。

 

これらの雑誌は、意識高いエンドユーザーに見て欲しいということの他に、金融機関で働く営業系の職員の情報源や客先での営業ツールとして使う参考書としての役割もある。

 

掲載されてる内容に大した違いはなくても、常に新しい情報であることをアピールするためには新しい号の雑誌を持っておく必要がある。

 

銀行、保険、証券の営業に携わる人の数は50万人とも言われてる、だから出版不況のなかでも、見えないところで一定の需要がある。

 

お客としてのターゲットを考えていると、自然と商売敵となるライバルの存在に思いが行く。

 

携帯電話の普及が顕在化させたのは、ライバルは同じフィールドにはいないという現象だった。

 

不景気も追い打ちをかけ、可処分所得の奪い合いになっている。

 

奪い合いが起きるところにはトレードオフが生じる。

 

お金のトレードオフだけではなく、生き方のトレードオフも起き出している。

 

『便利、役に立つ、効率的(生産性が高い)』という価値観は、少数派と多数派という二極分化を生み出した。

 

少数派が果実を独占するようになっている。

 

しかし、可処分所得の奪い合い合戦の結果生じたことだから、これ自体は悪いことではない。

 

『便利、役に立つ、効率的(生産性が高い)』という価値観に適応した結果、トレードオフとして失っていったのが人間には心と体があるという当り前のことかもしれない。

 

鬱に代表される精神疾患、成人病に代表される現代病は、人間が体を使うよりも機械に任せるほうが早くて確実で効率が良いという、間違っているとは思えないことに、そもそもの原因があるのかもしれない。

 

この30年位は、テクノロジーの発達のトレードオフとして、社会の裏側で大きな変化が2つあった。

 

 

 

 

 

その一つは、人間が持つその身体性を蔑ろにしてきたのかもしれないということ。

 

 

思えば、子供の頃から目標の設定は自分のためではなかったような気がする。

 

親や先生が喜ぶことを、自分の喜びだと勘違いし、社会人になるとお金を得ることを目標にする。

 

全部幸せになるために必要だと思ったからだし、大人になるとはそういうことだと思っていた。

 

自分のためでない生き方を続けるうちに、自分自身を大事にしなくなった。

 

自分の心と体に向き合わない生き方をするようになっていた。

 

結果だけを求めて、結果を目的にする生き方が身についたことのトレードオフのせいだろう。

 

怖いのは、そんなつもりがなくやってるということにある。

 

 

 

もう1つは、知らないうちに入り口が閉じられるようになったということだ。

 

そのことをうまく表現しているツイートがあった。

 

 

 

コミュニケーションの基本は人間同士が対面することにあるが、その対面の場が知らず知らずのうちに減っていたのだ。

 

減っていく時期をリアルタイムで経験していたが、このツイートを見るまでこの感覚を忘れていた。

 

コミュニケーションの入り口が狭められ、しかも事前のアポイントが必要になったのは、広い意味でのセキュリティ意識だろう。

 

不都合を排除するというごく当り前の行動だが、当然トレードオフを生じる。

 

今思い返しても不思議だが、セキュリティが厳しいビルにオフィスを構えるビジネスパーソンはなぜか忙しい人になっていった。

 

セキュリティが厳しい会社は、外部の人に厳しいだけでなく、内部にも厳しい目を向けだしていた。

 

セキュリティは、イタチごっこなので、一つ厳しくすると次から次になる。

 

人の出入りをチェックしだしたら、次は情報の出入りのチェックに移る。

 

情報はピンキリなので対応も次から次になる。

 

この結果、心も体も疲弊する。

 

心と体をバランス良く使わない生き方を続けて疲れ切ってしまうと、ますます体を動かさなくなる。

 

体を動かさないことで更に疲れていく。

 

この30年位の間に働く人は大きく疲れるようになってきた。

 

街を歩けばそこかしこでマッサージ店の看板を目にすることは、世間に疲れてる人が多いことを示しているのだろうし、『癒やし』という言葉が定着したことも疲れてる人が多いからだろう。

 

 

 

 

しかし、この流れは今変わりつつある。

 

疲れるのは、疲れ方が悪いからという考えが広まりだしている。

 

 

そのために、目的に向かう生き方を選択する人が増えている。

 

まだビジネス面では、自分の目的を強く主張できる人は一部かも知れないが、私生活では気兼ねすること無くできる。

 

 

テクノロジーの発達を求めることは相変わらず続くだろうが、人間が体を使うことに注目し始めている。

 

キッカケは、健康を意識してかも知れない、それは健康であることが特別なことになりつつあるからということを示しているかもしれない。

 

今はまだ流行にも見えるが、男性だけでなく女性も筋トレしたりしている、美容やダイエットに留まらずストイックな取り組みをする人が増えている。

 

街なかにジムが増えている。

 

参加型のスポーツイベントが増えている。

 

競ってはいるが、その相手は他人ではなく自分自身になっている。

 

拘るのは目標を達成することであり、着実な進歩の実感を得るためだ。

 

着実な進歩を実感させる疲れは、人を心地よくする。

知らずに陥る『受注体質』

営業の結果、契約に至ることを「受注する」と呼ぶが、この受注という言い方が暗黙のうちに伝えるのは、客も契約も会社に帰属するもので、営業パーソンに帰属するものではないという雰囲気(空気感)だ。

 

少し前まで、営業パーソン(多くの場合マンだったが)は誰しも客は自分のものだと考えていた、成果を独り占めしたいというよりも、アフタフォローを含め担当者は自分だと感じていたからだ。

 

逆に考えると、お客の方も営業パーソンの人柄を評価していたから契約が成立していたといえる。

 

理屈に情が勝ることはしばしばあったし、むしろ情が重要だった。

 

今でも情は大事なのだが、営業パーソンと客が情で繋がる状況がドンドン減っている。

 

直接会うよりは、電話で済ませるほうが効率良いと考えられ、更に現在では電話ですらTPOを束縛するので良くないと考えられ、メールやその他デジタル情報でのやり取りが増えている。

 

合理的な理由がいくつも当てはまるこのコミュニケーションの変化は、客と営業パーソンの間に成立していた情の結びつきを弱めている。

 

昔だったら、営業パーソンにとってお客は実体があるから情を感じていたが、今はお客は会社の看板が集めていると解され、営業パーソンにとって、お客はデータの一つになっている、会社から見れば営業パーソン自体がデータ化していると言えるだろう。

 

契約の獲得を受注と呼ぶことが増えたことの背景には、あらゆるものがデータ化し情を表面から排除しようとしたからだろう。

 

情報がデータ化すると、情報は受注するようになる。

 

 

カーナビが、新車に標準装備されるようになり、目に見えて普及しだした頃、ナビ任せで運転する人と、ナビは使うが地図でルートを確認する人と、ナビを(あっても)使わない人の3種類に別れた。

 

ナビが出る前は、目的地とルートが決まってる場合、「あそこにこんな建物があるよね」や「あそこに変な看板あるよね」という会話が成立していた。

 

いわゆるランドマークと言われる特徴のある地理的目標物は共通認識の対象だったのだが、このランドマークの話がナビ任せで走ってる人との間に成立しないことが増え始めた。

 

ナビというデータに頼ることで、情も刺激するランドマーク情報を必要としなくなったのだ。

 

合理的に行動することは出来るが、つまらない人間になりそうだ。

 

 

 

同様に、検索エンジンの発達は、知らないことは検索すれば分かるようになるということを可能にしたが、同時に、知ってることの価値を低下させることにも繋がった。

 

検索エンジンの発達は、賢いんだか賢くないんだかわからない人を大幅に増やしたのかもしれない。

 

 

 

インターネット登場前のマスコミは、情報の取捨選択を行うことで、情報の序列化を実現していたが、その序列化は、一定の見識と判断のもとに行われていて、多くの人にとって重要なものであるということは共通理解されていた。

 

この情報の序列化は諸刃の剣で良いことばかりではないが、一定の水準は保てた。

 

つまり、既存マスコミがコンテンツを通じて行っていたことは”価値の交換”だった。

 

一方、インターネットは、と言うよりも検索エンジンは、情報の並列化を加速させ、稀有な有用な情報と検索するまでもなく知ってる情報を同じ価値にしてしまった。

 

 

これらは、情報の受注化の弊害かもしれない。

 

 

 

これらはすべて効率良く結果を出すために敷かれたレールなのだが、上手く行かないのは、人間自体の劣化が進んでいるからだ。

 

情報がデータ化し、それを効率良く処理し、結果を出すことを求め続けると、人間が主役で展開されるべきトータル力としてのプレゼン能力が劣化していく。

 

情を理解できないで効率の良さだけを求めて発される情報は空回りする。

 

シンプルに言うと、インプットよりもアウトプットが大事で、だからこそ存在意義が出てくるのがSNSかもしれないと言われ始めている。

 

いろんな思惑を秘めても自由に発信できる世界はピンキリの世界だが、長期間継続すると発信者の素だけが残る。

 

匿名であっても、自分自身のキャラクターをプロデュースしてることになるし、飾り立てた部分の虚飾はすぐに剥げてくる。

 

だから、継続することが重要になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今の時代のブラック問題のようなネガティブな要素は、受け身の行動が作る受注体質から生まれている。

 

受け身でない行動が活路を拓くだろう。

 

どんな行動が受け身ではないのか?

 

こんな時代だからこそ、本当に大事なことは検索しないで決めるということだろう。

 

検索することがダメなのではなく、検索で出てくるものにたぶん答えはない。

死語になる『嗜(たしな)む』ということ

2007年に70歳で亡くなった阿久悠を取り上げる番組やドラマが2017年にはいくつかあった。おそらく過ぎ去った昭和を懐かしむ意図が大きかったのだろうが、どうせだったら何か新しい発見でもあればおもしろいと思い振り返ってみる。

 

 

24時間テレビ ドラマスペシャル「時代を作った男 阿久悠物語」 2017.08.26

 

【金スマ】作詞家・阿久悠のプロデュース戦略に中居正広も感嘆  2017/11/25

 

いきものがかり水野良樹の阿久悠をめぐる対話  NHK 2017年12月13日

 

私は上記に上げた番組の最後のものだけを途中から見たが、その中で阿久悠には 作詞家憲法15条というものがあると言っていた。

 

1970年台の歌謡界をリードしたのが阿久悠だと言われるが、阿久悠が提唱した15条には、同じ時期に高度成長を成し遂げた経済面とのリンクがあるはずだと思えるので、その15条を見てみると。

 

 

1.美空ひばりによって完成したと思える流行歌の本道と、

違う道はないものであろうか。

 

2.日本人の情念、あるいは精神性は

「怨」と「自虐」だけなのだろうか。

 

3.そろそろ都市型の生活の中での人間関係に

目を向けてもいいのではないか。

 

4.それは同時に歌的世界と歌的人間像との決別を

意味することにならないか。

 

5.個人と個人の実にささやかな出来事を描きながら、

同時に社会へのメッセージとすることは不可能か。

 

6.「女」として描かれている流行歌を

「女性」に書きかえられないか。

 

7.電信の整備、交通の発達、自動車社会、

住宅の洋風化、食生活の変化、生活様式の近代化と、

情緒はどういう関わりを持つだろうか。

 

8.人間の表情、しぐさ、習癖は不変であろうか。

時代によって全くしなくなったものもあるのではないか。

 

9.歌手をかたりべの役から

ドラマの主人公に役変えすることも必要ではないか。

 

10.それは歌手のアップですべてが表現されるのではなく、

歌手もまた大きな空間の中に入れ込む手法で、

そこまでのイメージを要求していいのではないか

 

11.「どうせ」と「しょせん」を排しても、

歌は成立するのではないか。

 

12.七・五調の他にも、音的快感を感じさせる言葉数が

あるのではなかろうか。

 

13.歌にならないものは何もない。たとえば一篇の小説、

一本の映画、一回の演説、一周の遊園地、これと同じ

ボリュームを四分間に盛ることも可能ではないか。

 

14.時代というものは、見えるようで見えない。

しかし時代に正対していると、その時代特有のものが

何であるか見えるのではなかろうか。

 

15.歌は時代とのキャッチボール。

時代の飢餓感に命中することがヒットではなかろうか。

 

http://p.booklog.jp/book/17226/page/211153

 

 

 

新しい価値を生み出すために、既存の価値に疑問の目を向けるという作業が行われてることに気付く。

 

現代人からすると、すごくわかりやすい問題提起を自らに課しているだけで、目新しさを全く感じないくらいだが、当時このアプローチは最先端で他の作詞家と一線を画していたのだ。

 

その当時の日本経済界は重厚長大型の財閥系企業がリードする中で、軽薄短小型のサービス業が広まり始めていたころでもある。

 

歌謡界も経済界も、既存勢力に隣接する分野に活路が見出だせていたのだ。

 

そんなわかりやすい70年代の終わりに歌謡界には一つの革命が起きている。

 

サザン・オールスターズの桑田佳祐の登場だ。

 

デビュー曲「勝手にシンドバッド」は阿久悠への挑戦でありパロディだったことは知られてる話だ。

 

78年にサザンオールスターズが、『勝手にシンドバッド』という曲でデビューしているんですね。これは、阿久悠の手がけた2つのヒット曲――沢田研二『勝手にしやがれ』という77年のレコード大賞を取った曲と、77年のピンク・レディー『渚のシンドバッド』という曲――を無意味につなげたものでした。『勝手にシンドバッド』なんて何のことやらわからないタイトルですが、当時の人にとっては「阿久悠作品のパロディだな」とピンと来るものでした。

『1979年の歌謡曲』著者が語る、作詞家・阿久悠とサザンの「ある因縁」とは

 

 

桑田佳祐が目指したのは、表意文字である日本語の表音文字化であったと言われる。

 

洋楽のラップのようなものを日本語で行おうとしていたと言われる。

 

日本語とラップは相性が悪いと言われる一方で、俳句や川柳など韻を踏むという音遊びの文化が古来日本語にはあることを思い出すと、その後の音楽シーンで日本語ラップがジャンルとして成立したのは新しいというよりも温故知新を感じる。

 

音楽のことを語っているが私は音楽に詳しいわけではない、そんな私の目には、桑田佳祐以降の著名作詞家としては秋元康の名が上がるのかもしれないが、彼の手腕はむしろプロデュース業がメインで作詞はおまけという感じを受け、アプローチの手法としては阿久悠的なのだが、阿久悠が感じさせた試行錯誤に向かい合う真剣さは感じない。

 

 

 

その昔、音楽を聞くことは音楽鑑賞と言われ”たしなみごと”と位置づけられていた。

 

音楽をたしなむという言い方をした場合、一般的には楽器の演奏をイメージするだろうが、音楽を聞くという行為も、演奏するのと同じたしなみごとであったのだ。

 

音楽をレコードで聞いていた頃は、社会人になる前だったからかもしれないが、まさにたしなむという言葉がふさわしい感じがあった。

 

レコード針がレコード盤に乗る瞬間には緊張感があったし、ちょっとした振動でレコード針が飛ぶので、静かに聞くというのはお約束事だった。

 

「お酒を少々たしなみます」なんて言い方があるが、たしなむという言葉には、その行動と表裏一体でマナーが存在していたことを思い出させてくれる。

 

いつの頃からか、たしなみごとの多くが、趣味や娯楽と言われるようになり、自分のルールで楽しんで良いと解釈されている。

 

その事自体が特に悪いわけではないだろうが、結果的に世の中はそれに連れて変化して行く。

 

たしな・む 【嗜む】

① 

芸事などを習って身につける。

② 

好んで親しむ。好んで熱心にする。

③ 

自分のおこないに気をつける。つつしむ。

④ 

ふだんから心がけておく。用意しておく。

⑤ 

きちんとした身なりをする。

https://www.weblio.jp/content/嗜む

 

 

おそらく、現代ではたしなむということばは本来の意味では使われていないだろう。

 

阿久悠が活躍していた時代に想いを馳せると、”たしなむ”ということばが死語になりつつあることを感じる。

臭いものに蓋ができない時代になった

日本人は「NO」が言えない。

 

海外との交渉に弱いことから海外と日本の関係性を表す言葉として使われていた言葉だが、1989年SONYの会長盛田昭夫と政治家石原慎太郎が共著で『「NO」と言える日本』を出した。

 

当時、バブル景気で盛り上がっていた日本では、多くの人がその盛り上がりを実感できていた、だから気付かないうちに強い自信を持つようになっていた。

 

しかし、今歴史として振り返ると、過去の一時期にそんな時期があったというだけだということが分かる。

 

日本人がNOが言えないのは海外に対してだけではない。

 

日本人同士でも、言えないことが多い。

 

友達同士でも、NOが言えないこともある。

 

友達同士なら言えるが、上下関係があると言えないことも多い。

 

上下関係として浮かぶのは、年齢や立場や社会的地位などで、こういう上下関係を感じてる時、日本人が自然と取る行動が、「忖度」、「予定調和」だ。

 

言いたいことを言ってるように見える人でも、肝心な時には口をつぐむ。

 

いつも自由に発言する人は、「空気を読まない」と言われる。

 

そんな日本に、ドラマとは言え、肝心な時に上下関係など関係なく『いたしませ〜ん』と言い出した大門未知子が登場するドクターXが始まったのは2012年。

 

脚本家の中園ミホにはこんな話がある。

 

取材力の中園ミホ」と称されるように、マーケティングリサーチが得意な書き手の1人であり、『ハケンの品格』の脚本を書くにあたっても数多くの派遣社員の実態を取材したため、派遣社員の実態に同情的である。2007年11月12日に放送されたNHKスペシャル『1000人にきく ハケンの本音』にゲスト出演した際には、同じくゲスト出演し、隣に座っていた奥谷禮子の「派遣社員は幸せである」との、派遣社員の実情を無視した断定的意見に対し、「この(座席)間に大きな川が流れている(=埋め難い見解の相違がある)ように思える」と述べた。

 

「いたしませ〜ん」というセリフは、虐げられる派遣労働者の想いを大門未知子に代弁させていたのだろう。

 

NOを言わない人が多い世界には、NOがないわけではない。

 

NOを感じてる人が我慢しているから無いように見えるだけだ。

 

はあちゅうが著名クリエイターのセクハラとパワハラを証言 岸氏「謝罪します」
「#metoo に背中を押されました。必死の訴えで、少しでも世の中が良い方に変わることがあれば」 2017/12/17

「私はこうやって声をあげるまでに、7年かかってしまいましたし、その間、ずっと『彼のことを許せない私が悪い』『忘れられない私が人間的に未熟なのだ』と自分を責め続けていました。

 

女性ではあるが有名人で、決して弱者には見えない人でも苦しんでるということは、かなり多くの人が、NOが言えずに苦しんでると言えるだろう。

 

 

組織が舞台になっていても、組織的に行われているとは限らない。

 

しかし、そんな場では組織の理屈が背景で機能する。

 

はあちゅうさんの問題はわかりやすいので、自分に置き換えて考えることが出来るが、自分に置き換えて考えるのが難しく実感が得づらいこともある。

 

日本の自民党政治の背後にいるのが『日本会議』で、日本会議の背後に『神社本庁』がいるとということは多くの人が知識として持っているだろうが、実感を持ってる人は少ないだろう。

 

そんな社会の中枢に関係してる古典的な世界(業界)もNOを巡って揺れている。

 

 

富岡八幡宮事件 「地獄へ送る」 宮司の人事めぐり肉親同士で骨肉の争い
神社本庁を離脱したばかり。約400年の歴史を持つ神社で何が…  2017年12月08日

茂永容疑者の解任後は父親が宮司に復帰していたが、高齢のため2010年に退任。これを受けて、長子さんを宮司にするよう、八幡宮は全国の神社を統括する神社本庁に具申した。ところが、神社本庁から回答がなく、数年にわたり宮司が任命されない状態が続いていた。

2017年に入って任命しない理由を照会する文書を神社本庁に送ったが、返事がなかったため、神社本庁を9月28日に離脱。その後、長子さんが宮司になったという。

 

姉弟喧嘩の扱いで当初報道されていて、加害者も被害者もその家族も少し変な人であったように伝えられていて、上流意識が強いと偏った生き方をするという印象を与えていた。

 

富岡八幡宮殺傷事件・富岡茂永容疑者が「日本会議」初の支部長として歴史修正主義運動に邁進していた過去

マスコミは、今回の殺傷事件の原因として、茂永容疑者の神職らしからぬ性格や放蕩三昧の生活をしきりに報道しているが、しかし、その経緯や冒頭で紹介した手紙などをみると、むしろ、茂永容疑者を犯行に走らせたのは、歴史ある神社の後継者、カネと人が集まる大神社元宮司としての歪んだエリート意識だったのではないかと思えてくる。

 

自分だけが「伝統」を体現する特別な存在であり、自分を妨げる者は排除されて当然であり、その正義の名の下にどんな暴力も許される、そんな特権意識──。

 

 

 

歪んだエリート意識は特権を求めだす。

 

一つの特権を認めることは別の特権を認めることに繋がる。

 

特権を持つ者は、持たない者に理不尽な服従を強いることになる。

 

そんな理不尽に服従を強いる特権に近いところにいた人々ですらNOの声を上げ始めている。

 

検索するとたくさん出てくるが、神社本庁から有力神社の離脱が続出している、そしてそのことは現政権が進める改憲を後押しするパワーの弱化に影響を与える。

 

 

こういう話題が立て続けに出ることには何か意味があるとすれば、臭いものに蓋をすることが難しくなってるということかもしれない。

 

そう感じてるところにまた一つ出てきた。

 

 

 

 

「福田首相が辞任した本当の理由」

アメリカより1兆ドルの提供を求められて断った福田首相。

まさか安倍さんはいくら同盟国とはいえアメリカに提供したりしないだろうか?!

 

 

無茶苦茶なことばかりやってるようにみえるトランプ大統領のやってることが正しいこととは言えないかもしれないが、注目されその発言も厳しくチェックされる分だけガラス張りの度合いは高いだろう。

 

こうやって臭いものに蓋ができなくなってきたのは、水面下でこっそり図られた予定調和が、事態がガラス張りになると、維持できなくなり、その真っ只中にいる人には極めて不快で、NOと言わずにはいられなくなるからだろう。

 

NOが言いづらかった人には良い時代が来てるだろうし、これからNOを突きつけられる人には嫌な時代が来たという事だ。

 

『四季』を再認識することで活路が拓ける

日本で生まれ日本で生活するネイティブの日本人には当り前すぎるが、世界に目を向けると決して当り前では無さそうなのが、はっきりとした四季があること。

 

四季があることが、日本人のメンタルに影響を与えてるとしても、日本人には気づきにくいかもしれない。

 

 

 

 

人生を季節に例えるような話をする場合、やっぱり始まりは春からになる。

 

人生には悩みが付きものだが、日本人は悩みも無意識に四季になぞらえる。

 

 

 

無垢な若葉や新芽が幼児や子供を感じさせるとともに、大人でも新スタートを切る場合にはイメージは春になる。

 

春の悩みは、何も知らないことに対して起こる。

 

友達できるかな?

 

勉強や仕事はついて行けるかな?

 

期待と不安が入り混じった悩みが多そうだ。

 

 

 

夏は、暑くて日差しも強く快適とは程遠いのに、なぜか”もっともっと”を求める季節だ。

 

夏の悩みは、強気になり”もっと”できそうな気がすることで起こる。

 

もっと実力を付けて上に行きたい!

 

もっと高い点数を取りたい!

 

もっともてたい(評価されたい)!

 

競争を好んだり、自分の世界にのめり込んだり、信じるものを疑わない気持ちが行動を駆り立てることが悩みになるが、夏の悩みは自覚があるかないかは別にして目標となることもある。

 

常に枯渇感があるのに、居心地は悪くなかったりもするが、友達がライバル化する時期でもある。

 

 

 

 

秋は、暑さと日差しが弱まり、快適さは増すが、昼間が短くなり、徐々に寒さを感じるようになるが、夏に求めていた”もっと”の充実を感じられる様になるとともに、信じるものを疑わない気持ちに疑心暗鬼が忍び寄る季節でもある。

 

秋の悩みは、不安が元で起こる。

 

このままで良いんだろうか?

 

狙っていたところに到達できてるのだろうか?

 

もっと寒くなったらどうなるんだろう?

 

寒さへの備えは充分だろうか?

 

ライバルが敵になるが、人恋しさも芽生えだす。

 

 

 

春、夏、秋、ここまでは実際の季節の持ち味になぞらえるように表現したが冬だけは少し違う表現をしたい。

 

その理由は、冬は植物や木が枯れることが死を連想させるが、冬の意味は春になれば枯れた木も新芽を出すということにあるような気がするからだ。

 

冬は寒く閉塞感があるが、だから家族が身を寄せ合い、春に備えて準備する、準備は春夏秋で貯まった疲れや不具合を解消し回復することにある。

 

冬の悩みは春に備えての準備を巡って起きる。

 

反省点はどこにあるのだろう?

 

新しい目標をどうしよう?

 

最大の敵が寒さだとわかると、敵やライバルも皆協力し合う仲間だと気付く。

 

 

 

 

浅い考えでほんの一例を上げただけだが、もっとたくさんイメージできることはあるだろう。

 

 

 

 

言いたいことはここからで、四季の存在を当り前に感じていると、無意識に、変化や大きな出来事が生じたときの背景やその意味をを4つに分類してるかもしれないということだ。

 

問題点を解決するために、四季になぞらえられるようなプロセスを当てはめているかもしれない。

 

この4つのリズムを意識すると、着実な進歩を目指せるが定型化したルーティンワークになりがちで、やがて結果が出るまで時間が掛かり過ぎと評価されるようになるが、究極的には様式美に上り詰め、芸術の域に達する。

 

なんのことはない、今の日本の特徴そのものだ。

 

ネイティブの日本人には四季のリズム感が文化として宿っている。

 

四季は世界どこでもあるのだが、それぞれの季節に気候風土的な特徴が際立って出るのが日本の四季の特徴で、実際の気候は違ってる沖縄や北海道の人を含めて共通認識を持ってるはずだ。

 

日本型のビジネスが、スピード感がないと言われ、意思決定が遅いと言われるが、この遅さは四季のリズムに由来するのではないだろうか。

 

ついでに言うと、春(4月)を起点に1年が始まるという文化が遅さの原因かもしれない。

 

グローバルビジネスには四季は全く関係ないから、日本人の良さを発揮することができない。

 

日本のグローバル化を妨げ、世界に通用しなくさせてる大元が、4月起点で始まる四季の文化かもしれない。

 

今更グローバル化に活路が見出だせるとは思わないので、この四季のリズムが織りなす文化をジャマモノ扱いする必要はない。

 

大事なことは、『この四季のリズムは武器にならないのだろうか?』ということに答えを見つけることかもしれない。

 

季節としての四季ではなく、日本人のメンタルに宿ってる四季文化や四季リズムを武器に出来れば、圧倒的に有利な闘いを楽に展開することができそうな気がする。

目の前のフィルターが見えてるか?

格差社会の現代の構造を捉える2種類の表現がある。

 

格差がヒエラルキーを作ることからピラミッドに見立てた表現が一つで、私もこれをすぐにイメージする。

 

ピラミッドのように多くの段階があり、上に行くほど人数が少なくなるというグラデーションを描くような格差で、果てしない格差がある一方で良い意味での多様性が感じられる。

 

もう1つが、「学歴フィルター」のように最初の段階の選別で選ばれるかはじかれるかという選択をされるものがある。

 

この学歴フィルターのような選別は、0点か100点かという極端な振り分けがなされることが特徴になる。

 

学歴フィルターについて、あなたが知らない7つの秘密

「自分は高校時代はあんまり勉強しなかったけれども大学4年間はこんなに頑張りました」と言う人も多いでしょうけど、そういう人にチャンスを上げられるほど大手の採用担当の懐は深くありません。

 

だって、うっかり冒険しちゃってダメだったとしても、その人を65歳まで雇い続けないといけないわけですからね。少なくとも現行の終身雇用であるかぎり、企業は応募者の自己申告よりも18歳時点でのポテンシャルを重視するしかないでしょう。

 

 

 

この学歴フィルターのあり方の是非はともかく、現実社会は、ここぞというところでその都度フィルターに掛けられるようになっていて、多くの人がそれを感じているはずだ。

 

フィルターを通過できれば先に進めるが、通過できなければ、別の通過できるフィルターを求めて彷徨うことになる。

 

格差がピラミッドならば、頑張った度合いに応じてどこかに納まることもありえたが、フィルター選別型になると、どこにも居場所がないということが起き始める。

 

このフィルター型の選別は何かに似てるなと感じたが、よくよく考えるとデジタルの仕組みそのものなのだ。

 

0と1の組み合わせで構成され、ONとOFFの切り替えで運用されるデジタルそのものなのだ。

 

いい意味での曖昧さが社会から無くなっていることを嘆いてもしょうがないだろう。

 

何か対抗手段はあるのだろうか?

 

敵はフィルターなのだ、フィルターを設定してる人や組織と対抗しようとしても苦労するだけだろう。

 

フィルターの弱点や盲点や不備を突くしかないだろうが、そこには工夫の余地があるような感じがする。

 

今、詐欺や詐欺まがいが多いのは何故か?

 

フィルターの前提である法律の弱点や盲点や不備を突いてると考えることはできないだろうか?

 

そうだからと言って支持することはできないが、上場企業でも詐欺まがいのビジネスをしたり、ブラック化は増えている、このことはフィルターを課してた側にも別のフィルターが課されていることを意味してるような気がする。

 

大元にあるデジタルの仕組みや発想が、フィルターを作らせてるとするならば、そこに何らかの弱点や盲点や不備を見つけるしかない。

 

そんなデジタルの弱点や盲点や不備は見つかるとすればコミュニケーションの領域になるだろう。

 

ヒントの一つは、フィルターバブルにあるかもしれない。

 

フィルターバブル (filter bubble) とは、インターネット検索サイトのアルゴリズムが、ユーザーの情報(所在地、過去のクリック履歴、検索履歴など(ウェブビーコンen:Website_visitor_tracking)に基づいてユーザーが見たい情報を選択的に推定するような検索結果を出すことが原因で、ユーザーがその人の観点に合わない情報から隔離され、実質的に彼ら自身の文化的、思想的な皮膜(バブル)の中に孤立するようになっていくこと。

 

多様性の時代と言われてるのに、多様性に対応できない人が増え、そのことに気付かない人も増えている。

 

単純に『情弱』とバカにすることはできない。

 

フェイクニュースで政治が動き、戦争すら起こるかもしれない。

 

そんなフェイクニュースを真実に仕立て上げるのに一役買うのもフィルターバブルだ。

 

フィルターバブルに陥る背景には、ブログをはじめとした一話完結の短文で構成されたネットコンテンツの存在とそれらがあっという間に陳腐化することなどがある。

 

本当はもっと長い時間をかけて起承転結を踏まえて理解されなければいけない内容を、お手軽に結論だけ伝え、それを生産性を上げると奨励されたり、タイムラインを流れる情報を追いかけるばかりで何が大事なのかわからなくなり、世間が多く反応してるものに同調するようになっている。

 

また、世間の反応を多く集められるコンテンツを発信する人は「共感を集める能力が高い」という権威をもつようになる。

 

このような人はインフルエンサーと呼ばれ、様々なビジネスの場でも重宝される存在になり教祖化するが、それは様々なフィルターを潜り抜けた結果でもある。

 

運やタイミングをものにしたことも、一種のフィルターを潜り抜けたと言えるだろう。

 

就活ではエントリーすらさせないフィルターが存在するのに対し、インフルエンサーへの道は誰でもエントリー可能だ。

 

険しい道の入り口は全ての人に開放されてるが、楽に見える道は一部の人しか通してもらえない。

 

楽に見える道が、本当に楽かわからないのに、大勢がそこを目指すこともフィルターバブルの為せる業だろう。

 

そう考えると、無意識のうちに選択肢から外してる生き方を考え直すと新しい発見が得られるかもしれない。

 

 

そうすると、目の前のフィルターの種類が変わり、突破しやすくなるかもしれない。

 

目の前のフィルターが見えれば(感じられれば)、突破しやすいフィルターを選ぶほうが賢明だ。