違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

世の中は、知らないことだらけ!

日本時間の2月7日(アメリカでは6日)、イーロン・マスク率いるスペースX社が「ファルコン・ヘビー」と名付けられたロケットの打ち上げに成功した。

 

イーロン・マスクは、ロケット業界にイノベーションを持ち込んだ。そんなイーロン・マスクが記者団に語ったのは、

 

「よその会社が再利用できる飛行機を提供しているのに、1回しか使えない飛行機を売り込むようなものだ。しかもその飛行機は、目的地に着いたらパラシュートで脱出しなくてはならないし、どこかに適当に墜落して壊れてしまう。めちゃくちゃな話だが、それが今のロケット業界の現状だ」

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イーロン・マスク氏のロケット「ファルコン・ヘビー」打ち上げ成功 BBC 2018年02月7日

 

 

三機のロケットブースターで発射れたがそのうち一機は大破したが、二機が無事に帰還した。

 

スペースX社が、打ち上げたロケットを再利用可能な状態で無事に帰還させることに初めて成功したのは2016年4月13日でこのときは一機。

ファルコン9ロケット、打ち上げ後に洋上船への着陸に成功

 

 

壮大な技術の世界が着実な進歩を成し遂げ、人類はどこまで進歩するのだろうかと感じさせるできごととなった。

 

しかし、そんな人類は金(GOLD)を人力で作ることが出来ない。

 

錬金術の時代と違い、現代は金の作り方は解明されている。

 

わかっているのに作れないのは、膨大なエネルギーが必要となるためで、太陽の40倍以上の質量を持つ恒星が爆発する際に発する規模(ハイパーノバと呼ばれる)に相当するエネルギーが必要になるためだ。

 

核融合レベルのエネルギーで作れる最も重い元素が鉄で、それ以上に重い元素は星の爆発以上のエネルギーが無ければ生まれないとされる。

 

わかっているのに作れない『金(GOLD)』に対し、わからないから作れないのが『命』。

 

単細胞の原始的なものでも作れない。

 

細胞と間違われやすいのがウイルス。

 

ウイルスラテン語virus[† 1])は、他の生物細胞を利用して、自己を複製させることのできる微小な構造体で、タンパク質の殻とその内部に入っている核酸からなる。生命の最小単位である細胞をもたないので、非生物とされることもある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ウイルス

 

 

人類はウイルス兵器を作るなど、ウイルスはコントロール下に置いてるが、残念ながらウイルスは細胞ではなく、つまり命を持っていない。

 

命と聞いて連想することに染色体がある。

 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/染色体

性染色体の組み合わせは女性では2本のX染色体、男性ではX染色体とY染色体1本ずつとなっている。女性の2本のX染色体のうちの片方は不活性化されており、顕微鏡下ではバー小体として観察される。

 

 

 

自然界の人間に、Y染色体とY染色体の組合せは存在しない、実験的に組み合わせると命が宿らないらしい。

 

人間の場合、どうやらX染色体と命が関係ありそうなことまでは想像できるが、そこから先がわかっていない。

 

 

地球上では生態系の最上位に位置している人間は、分類上生き物の頂点だが、自らの意志で命を作ることは出来ない。

 

 

 

 

生き物の世界は、『弱肉強食』と言われる。

 

生き物の世界では、生きる目的は、子孫を残すことと言うのが定説だ。

 

そういう意味では、動物の世界では、メスが主導権を持ちオスを選択する。

 

メスが求めるのが「強いオス」とされることも、弱肉強食の世界観を感じさせる。

 

 

 

先入観では、弱肉強食が基本に感じる生物界が織りなす生態系には、そんな先入観が正しいわけではないことを示す事例がたくさんある。

 

食物連鎖を考えると生態系の上位の強者の存在でも最後は死が訪れ、死んだ後は他の動物に食べられたり、微生物に処理され、別の物質に戻り、地球に還元されていくという意味では、強弱という差はなく、全ての生物が平等の扱いを受けているといえる。

 

生きてる間だけを見ても、決して弱肉強食という理屈だけではない。

 

 

人間社会は、弱肉強食のようで共生社会とも言える。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/共生

共生現象のうち利害関係が分かりやすいものにはそれを示す名が与えられている。

  • 相利共生(そうり - ) … 双方の生物種がこの関係で利益を得る場合
  • 片利共生(へんり - ) … 片方のみが利益を得る場合
  • 片害共生(へんがい - ) … 片方のみが害を被る場合
  • 寄生(きせい) … 片方のみが利益を得、相手方が害を被る場合

 

 

 

上記の共生の分類は現在定説となっているが、共生は観察で確認され、推測で導かれてるに過ぎず、現在でははっきり分類できるものでは無いというのが有力になっている。

 

マンボウとコバンザメの不思議な関係

で、おかしな話はココから。どうもマンボウにくっつくコバンザメにはくっつくだけには飽き足らずこんな行動に出るコバンザメもいます。

右上のヤリマンボウの写真、一見普通のヤリマンボウです。

コバンザメもくっついていません。

でもよーく見てください。

マンボウの鰓(エラ)穴から何か尻尾のようなものが飛び出ていませんか?

 

マンボウの鰓穴のから黒い魚の尾鰭(おびれ)が見えるでしょう?

実はこの魚こそコバンザメなのです。

ついにマンボウの鰓穴にまで入ってしまいました(実はこのような目撃情報は結構あるのですよ)。

なぜこのような行動を取ったのでしょうか?

コバンザメは宿主の体表にくっついて生活するのではなかったのでしょうか?

 

 

さて、この侵入したコバンザメは再び出ることが出来るのでしょうか?

巨大マンボウの鰓の内部にいたくらいですから一生をマンボウの鰓の中で過ごすのではないでしょうか。

となると、果たしてこの関係は片利共生と言えるのでしょうか?

魚の鰓というものは水から塩分や酸素を取り出したり、浸透圧調節をしたりと非常に重要で、そしてデリケートな器官です。

鰓がわずかに傷つくだけで魚は死んでしまいます。

コバンザメには利益があってもマンボウにとってはもちろん何の利益もなく、かなり高いリスクを負っているように思えます。

鰓の中でコバンザメが暴れようものなら鰓は傷つき、マンボウは死んでしまうでしょう。

先にコバンザメが死んでしまったらその死骸はどうなるのでしょう?

第一、鰓の中にこのような大きな魚がいるだけでマンボウにとっては邪魔で仕方ないでしょう。

むしろマンボウを死に至らしめる可能性のある寄生に近いような気もします。

 

 

エコシステムのことはまだまだよくわからないことだらけで、定説自体が間違ってる可能性もあるだろう。

 

清潔であることは良いことずくめのように思われてるが、実はそうではないことが分かってきている。

 

健康という意味では、腸内環境の要素が大きく、腸内環境は腸内細菌で決まると言われてる。

 

腸内細菌には、善玉菌、悪玉菌、日和見菌の3種類があるが、全部必要でそのためには多くの菌を体内に取り込まねばならない、大切なのは菌のバランス。

 

それを妨げる行為が、過剰な清潔だ。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/常在菌

基本的には人の健康に影響を与えず、共生関係にあるものを指すが、免疫力の低下により日和見感染を起こすこともある。

またそれとは逆に、安定して多数で存在することにより、侵入した病原性微生物の繁殖を抑制し、発病を防ぐ効果もあると考えられている。実際、強力な抗生物質の使用などにより常在菌が極端に減少すると、他の細菌やカビなどが爆発的に繁殖し、病原性を示す事がある。

 

 

 

養老孟司・評 『心を操る寄生生物 感情から文化・社会まで』=キャスリン・マコーリフ著

現代医学では、人体に住み着いているウィルス、細菌、原生動物、菌類その他を合計すると、百兆個体の桁になるとされる。

こうした微生物起源の遺伝物質の総量は、自前の遺伝物質の百五十倍にもなるという。

そうした微生物が、われわれに影響を与えていないはずがない。

 

 

腸には多数の神経細胞があり、第二の脳とも呼ばれている。

ひょっとすると、腸の神経細胞のほうが、脳より先にできたのかもしれないのである。

 

 

世の中は、人間が知らないことで溢れている。

 

何が正しいかなんてわからないと思ったほうが良い、そんな時は好きな方を選ぶに限る。

 

分散化の時代は、商品が人になる!

芸能人がマネージャーと恋愛関係になることは業界ではご法度とされている。

 

このケースが発覚する場合、芸能人側は女性であることが多い気がする。

 

このような場合、ワイドショーや週刊誌ではスキャンダルとして扱われ、マネージャーが『商品』に手を出したというトーンで取り上げられる。

 

人間を商品として扱うことに違和感を感じさせない数少ないケースの一つだろう。

 

人気芸能人の場合、華やかなイメージと実際の生活の充実も両立してるのだろうという羨望もあるので、商品として扱われても蔑んだイメージを与えないからかもしれない。

 

しかし、借金のために風俗業界で働くことを余儀なくされたような女性に対して"商品呼ばわり"すると弱者をいじめる印象を与える。

 

一般的に、商品とはモノやサービスだと考えられている。

 

では、商品が人間の場合というのは、何を指すのだろうか?

 

芸能人の場合、演技や歌になるのだろうが、それらを見せて披露するという意味では、顔やスタイルなどの外見であり、聞かせて披露する側面もあるので声やしゃべりも重要な要素だろう。

 

そして、企画力やアイデアも加味して得られた総合的なパフォーマンスが商品と言えるかも知れない。

 

総合されたパフォーマンスという捉え方をすると、プロのスポーツ選手も”商品”の中に入ってくるだろう。

 

既に有名人になってる人を頭に浮かべた場合、その人が商品扱いされることに対してあまり違和感を感じないが、有名人になる前の”一般人”の時代からどうやって”商品”の地位にまで登りつめたのだろうかということが気になる。

 

新人がデビューすることを考えると、芸能界とスポーツ界では少し違いがあることに気付く。

 

スポーツの場合、草試合や学校教育の中でその能力が徐々に花開き世間の注目を浴び、やがてプロの目に留まるというプロセスがイメージしやすい。

 

この場合は、知る人ぞ知る存在から徐々に認知が拡大する。

 

地元のスポーツ好きの間で話題になることから広がり、そのスポーツに関心がある多くの人に認知の裾野が拡大する中で、マスコミに話題として取り上げられ全国区の存在になるというプロセスがイメージしやすい。

 

全国区の最初は、マスコミ側の取材で発信され、スポーツに関心が薄い人にも情報として届くようになりだす。

 

こうして、一般人が有名人化していく。

 

スポーツの場合は、徐々に段階を踏むことがイメージできるが、プレーやパフォーマンスが、尺度として数値化され客観的な評価に晒されるという特徴がある。

 

それに対して芸能界では、一般人から有名人へのシフトは”ある日突然”というイメージがある。

 

登竜門的なイベントや番組で注目を集めることで一気に有名人になれるイメージがある。

 

実は段階を踏んでいるのだが、認知は一瞬で起こる傾向があるように感じる。

 

キッカケはどうであれ、一旦有名人になると一定の成果を求められる。

 

パフォーマンスの質と集客力の両方が求められる。

 

それを支えるように、告知としての広告宣伝が仕掛けられ、パフォーマンスを知らしめるための場がマスコミ上にも設けられる。

 

①何らかの形で注目される⇒②注目を評価に変える⇒③広告宣伝でさらに知ってもらう⇒④(マスコミ等で)大きく取り上げてもらう⇒また①に戻りループを繰り返すことが好循環になる。

 

人が”商品”である場合の私のイメージが以上なのだが、これって今では一般人にも求められてるような気がする。

 

有名人は目立とうとするのに対し、一般人の中には目立つのは嫌だと思う人も多いだろうが、結果を求められるという立場は全ての人に当てはまる。

 

差別化のポイントは、何で結果を出すのかという意味での『パフォーマンス』をどうするかという問題になる。

 

厄介なことは、パフォーマンスは伝わらなければゼロだということだ。

 

努力したとか、頑張ったというのは、評価にはあまり関係ない。

 

評価が高い場合には、「頑張ったんだね」「努力したんだね」と言ってもらえる。

 

 

 

では、最近の"一般の商品"はどうかというと、

 

 

 

この意見に頷く人は多いだろうけど、最近『商品』の定義が変わってきてるような気がする。

 

単純にモノやサービスとして見た場合、優劣の差が殆どなくなってきて、差別化ができなくなっているので、簡単に伝わる一目瞭然性が低いと言える。

 

優劣を尺度とした魅力では人を惹きつけることができなくなっている。

 

つまり、伝え方が問われる。

 

 

使ってみたいと思わせるのは、商品の魅力よりも、”魅力の伝え方”の方が重要になっているのかもしれない。

 

あてがわれた商品だけが商品ではなくなってきている、魅力をどう伝えるかというのは、立派なパフォーマンスで、それ自体が商品と一体化する。

 

 

そう考えると、すべてのビジネスが商品単体で売れる(=評価される)時代ではなくなってきている。

 

誰が"どのように"売ってるかが重要になり、買う人は"どのように"に惹かれて行動するようになる。

 

この"どのように"の部分を担っていたのが広告宣伝だが、マス向けの情報では心を動かす力が弱まり、代わりにSNSが注目されているのが今だ。

 

だから現在のSNS上では、ステルスマーケティングポジショントークが中心を占めている。

 

その際のキーワードが、『リア充』や『インスタ映』で、流行り言葉ではあるが、意味する中身はかなり古典的だ。

 

キーワードや世間の動向を分析し方向性を見出そうとすると、結局皆が同じところに集ってくる。

 

資本主義社会は、そういうことを何十年も続けている。

 

そういう流れに慣れた現代人は、時間差はあっても結局同じ方向を目指してしまうが、本音は"違いたがっている"。

 

これまでは、先頭を走る人が最初に違う方向を向き、その後から追随する大勢の人々という図式だった。

 

しかし、少し前まで追随する側だった人が、先に違う方向を向きだした、その方向に追随する人は、方向性への共感を感じてることが多い。

 

あるいは、向かうところは同じでも手段や方法を変化させ自分流で行動する人も増えている。

 

このような少人数で構成される動きは、追随しようとする場合、具体的にどのように行動すれば良いかがわかりづらくなり、結果的に動いた人の動きには独自性が出る。

 

集中から分散の時代と言われてるが、分散はそうして始まっている。

 

新しく生まれた傾向は、一定期間続くものだ。

 

音楽の「CD離れ」がさらに加速、世界最大の家電量販店でもCDの販売が終了へ 2018/2/7

音楽業界はいま、「アルバムを作って売って活動する」というスタイルから「ネット販売やネット配信、YouTubeの露出で知名度を上げて、ライブに来てもらう客の数を増やす」という形式に大きく変化しているといわれています。

 

また、その他にもクラウドファンディングで活動資金を広く集めたり、「パトロン方式」で活動を資金的にサポートしてもらうなどのスタイルが生み出されていますが、まだまだ主流とは言いがたい状況にあります。

 

業界全体の売上の低迷は、ほぼそのまま音楽アーティストの活動に影響することになるので、今後どのように状況が変化するのかは、ひいては音楽ファンにとっても無視することができない関心事になるといえそうです。

 

 

経済成長の時代は、集中の時代だったが、集中に活路が見出だせなくなってるとすれば、反対方向の分散の動きが注目されるのは自然な話だ。

 

今、"分散の動き"が動き始めたとすれば、マス向けの情報や行動は、反応が得られないものになっていき、商品はモノから"その人"に移行し、パフォーマンスで差別化される

 

集中から分散へ時代が動けば、従来のカテゴリーでは分類不可能なことが増えてくる。

 

男性や女性という一見疑いようがない分類も"偏見"となるかもしれない。

 

 

「男子でも女子でもない」中高生、米国で増加 :CNN 2018.02.07

(CNN) 自分の性別を「男子でも女子でもない」と認識する中高生が増えているという調査結果を、米ミネソタ大学の研究チームが発表した。

 

学校や医療機関は性別に対する狭い見方を捨てて子どもたちの認識への理解を深め、健康状態の偏りを解消する取り組みを継続する必要があると研究者は提言している。

 

 

分散化が進むと趣味嗜好の分野も変化が訪れる。

 

「1年間洋服を買わないチャレンジ」が妻にもたらした劇的な変化
「できるはずない」と思っていたら… 2018/2/8

妻の松尾たいこが「1年間洋服を買わないチャレンジ、ってのに挑戦する」と言い出した時は、「まあ単なる思いつきだよね」と私はほとんど相手にしていなかった。彼女が根気がない人だからではなく(いや、どちらかといえば根気はある人だ)、ほとんどマニアックなまでの情熱を衣服に捧げているファッショニスタが、そんなことできるはずないと思ったからだ。

 

スタイルの変化は、人生を変え、社会を変えていく。

 

 

 

何はともあれ、『180度反対の価値観』を意識し、そちらに行動をシフトすることは新しい発見があることは間違いない。

 

分散化が進むと、人が商品になり、人が商品になるということは、生き方が商品になるということだ。

『分散化』の時代!

二日前の朝、起きてすぐに枕元に置いていたipadを開くとネットに接続できていないことに気付いた、しかしwifiの強度は出てるのでおかしいなとは思ったが、面倒だがモデムとルーターを再起動すれば復活すると思っていた。

 

過去に何度か同様の経験があったので、この時点では深刻ではなかったが、実際に再起動しても復活しないので、ここは基本に戻るべきだと考え、30分から1時間再度電源を落としてみた。

 

電化製品の不調の理由に長期間に渡る通電状態が、本来帯電しないパーツに帯電状態が発生することでおかしな動きをすることがあるので、そうであってほしいという思いで帯電解消のため少し長くコンセントを外してみたが、復活しなかった。

 

契約時の説明書を引っ張り出すと、モデムの契約は13年前だった。

 

ルーターは無線LAN化後1回交換し、現在の機種は使用し始めて3年目。

 

モデムのインジケーターのランプの点灯が8時間前まで正常だったのにおかしいままだった。

 

その後、モデムは契約上はレンタルなので連絡を取ると、「老朽化が原因でしょう、代品を送ります」ということで一件落着だが、代品が届くまで中3日かかるということで金曜日の夜まで自宅のwifiが使えない状態になった。

 

私はガラケー派だが、ポケットwifiも持っているのでネット環境は常時確保しようと思えば出来るがかなりのストレスを感じている。

 

 

ここまでは前置きで、書きたいことはここから。

 

どこでも常時ネット接続が当り前という価値観はスマホの普及がもたらしたもので、その時期を普及率が50%を超えたところとみなすならば、2014年となる。

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http://www.garbagenews.net/archives/2170355.html

 

 

 

ネット接続できないと手足をもがれたようなもどかしさを感じるようになって高々数年なのだが、それ以前を思い出せないくらい"あり得ない感"が強い。

 

ipadが世に出てそこそこ普及しても、外で使ってる人の多くがネットに接続してないのは当り前の頃があった、これも数年前の話だ。

 

 

"便利なものや良いものに触れてしまうと、それがなかった時のことを簡単に忘れてしまう"ということに改めて気付いた。

 

インターネットに接続できなくなると、途端に自分が馬鹿になったような気さえする、昔と言っても数年前ですら戻れないなと感じる。

 

そんなことを面白おかしく書いてあるのが下記。

 

https://bbpromo.yahoo.co.jp/special/showa/

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喫煙率の推移は男性は劇的に下がっているが女性は変化なしということがわかる。

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http://www.health-net.or.jp/tobacco/product/pd090000.html

 

 

おそらく、いろんなことが昔より断然今のほうが良い。

 

このなんてことない出来事が下記の話題を思い起こさせてくれた。

 

しかし、面白いことに逆の意味なのだ。

 

本当は良くなかった昔のことを、記憶の中では美化するという話だ。

 

 

 

 

 

このツイートに対する返信を見れば昭和は"三丁目の夕日"だけではなかったことがわかる。

 

考えてみれば、最近指摘されるマナーの悪さで上げられるものは、昔だったら許容範囲に収まっていたようなものばかりで、表面的に見ると現代人の忍耐力が落ちているようにしか感じられないが、マナーが良くなり最悪のものが減ったために、昔だったら気にならなかったものが、気になるようになったということかもしれない。

 

盗みが“悪いこと”だという認識すらなかった日本人が「マナーが良い」と言われるまで

なぜ日本人のマナー・モラルが向上していったかって?僕は「衣食足りて礼節を知る」ということわざがすべてを表現していると思いますね。日本は豊かになった。余裕ができたからこそ、マナーやモラルもよくなっていったんです。

 

1926年〜1989年まで、約63年間という長い間続いた昭和の時代は、マナー・モラルがひどい時代もありました。しかし、戦後の復興に尽力し、高度経済成長期を経て、現在に至るマナー・モラル、きれいな日本の礎を作ったのもまた昭和の人たちということになるのでしょう。

 

 

昭和が良かったという評価につながる理由のひとつは、悪いながらも目の前での変化が実感できたからだろう。

 

現代は良さが飽和状態に達してるとも言えるので、少し位良くなっても良さを実感できない、むしろ効率化が進み自分の出番が減ってる人が多いので、不満を抱えてる人は増えているかもしれない。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/自己実現理論

 

 

マズローの欲求5段階で言うと、安全の欲求をどうにか達成し、次の社会的欲求を満たそうとしていたのが昭和の動きだったのだ。

 

平成の前半は社会的な欲求が中心で、現在が承認の欲求の時代だ。

 

承認の欲求までは、所属や帰属という集団との関係が問われると言う意味ではベクトルは『集中』に向かう。

 

その次の段階の『自己実現の欲求』にベクトルが向かい出すと、『個』が問われるので『分散化』が始まる。

 

 

そんなつもりが無くても、地球が自転し、太陽の周りを公転するように、時代も転がっているということを、モデムの故障で感じた。

 

アンタッチャブル!

『秋篠宮ご夫妻の長女・眞子さまと小室圭さんの結婚行事について、準備時間などの関係から2020年に延期となることが分かりました。

報道記事によると、天皇陛下の生前退位や譲位の関係から充分な準備を行う時間的余裕が無く、結婚行事は2020年頃に延期となる見通しです。』

 

という報道がなされた時、多くの人が「ああ、あれが原因かな」と思っただろう。

 

私も思ったが、一つ疑問だったのは、"身辺調査を潜り抜けてなかったのかな?"だ。

 

 

眞子様結婚延期へ 週刊誌を読まない人に解説 2018年02月06日

①横浜市職員だった父親が自殺し、その父親(祖父)も後追い自殺しているが、どういう事情があったのかよくわからない。

 

②小室氏の現在の年収は推定で250〜300万円程度とみられ、弁護士事務所の補助員なので今後も昇給は難しく将来の生活設計ができてない。また、財産もあまりなく、親戚との関係もトラブルがある。

 

③母親が父親の死後に婚約し小室圭氏の学資などを援助していたが婚約は破棄され、援助したお金は返済されていない。

 

④母親がある小さな新興宗教に入信し、その方面でのお付き合いについて噂もあり精査しなくて良いのか。

 

 

 

 

 

 

そう思いながら、身辺調査の妨げになったのは"開かれた皇室"のあり方かもしれないとも感じた。

 

皇室が開かれだしたのは平成天皇になってからだが、皇太子時代からその思いはあったのだろう、こんなエピソードがある。

 

昭和63年、アグネスチャンが司会をした世界各国の留学生が集まるパーティーで

皇太子両殿下(現在の両陛下)と留学生たちが歓談。 

両殿下が入場される前に外務省の係の人が留学生を並ばせた。 

白人から、だんだん肌の色が濃くなるようにきっちりと分けて。(

両殿下(※現在の両陛下)が会場に入ってきて、 

さっとお部屋の様子を見てとって何食わぬ顔で 反対側(肌の色の濃い方)から回った。 

アグネスチャン「何もおっしゃいませんでしたが、 その行動自体が最大のメッセージだったと思います」

(当時の地方新聞より)

http://hinomoto.wiki.fc2.com/wiki/いろいろ切れ端

 

 

皇室を開くということは、"特別"ではなく"普通"であることを望む気持ちだったのだろう。

 

そうやって普通である行動は恋愛に関しても皇室を開いたのだろう。

 

テレビ東京島田アナウンサー(2004年11月) 

愛する人と一緒になるために皇室に嫁ぎ、皇室の伝統を大事にし、教えを請い、

皇室の一員となれるよう努めていくことが、 よりよい自分をつくっていくことにつながると考える紀子さま。

皇室に入るということを就職ととらえた、雅子さま。

異質の世界に嫁ぐ娘を内心心配しつつも、娘の今後にたしかな自信をもち、 

皇族の一員となることへの責任と自覚をもつようにと諭している川嶋教授。 

とにかく自分の幸せを第一に考えてほしい、いつまでもお前は私の娘だ との主張がみえる小和田氏

http://hinomoto.wiki.fc2.com/wiki/いろいろ切れ端

 

 

 

開かれた皇室は、特別な状態から少しだけ普通に近づくことだったのだろう。

 

そして、特別から普通になるということは、自由を手に入れるということでもある。

 

自由ではない状態とは、束縛されてる状態で、それは生活が監視され管理されることに繋がる。

 

眞子さまと小室さんの結婚延期は、開かれた皇室が許容した自由が起こしたいたずらなのかもしれない。

 

小室さんに対する事前の身辺調査がきちんとなされていれば今回の事態は避けられただろうが、その場合眞子さまは恋愛を引き裂かれることになる。

 

ということは、出会ってはいけない二人が出会ったという現代版ロミオとジュリエットだ。

 

自由であることは、"プライバシー遵守"と"パパラッチ的興味"というトレードオフの関心事を生み出す。

 

束縛されてれば、監視され管理され、周りに守ってもらえるが、自由がない。

 

自由であれば、思った通りに行動できるが、自分を守るのは自分だけとなる。

 

自由だけ、あるいは束縛だけという人生はない。

 

皆それぞれが、自由と束縛に折り合いを付けながら生きている。

 

 

 

 

 

同じできごとを、どのように表現するかに多様性があることは、自由の為せる技だ。

 

しかし、自由とは不思議なもので、自由について考えると、アンタッチャブル(untouchable)ということばが頭に浮かんで消えなくなる。

 

なんでも出来る自由と、そんな自由を妨げようとする自由。

 

まるで『矛』と『盾』だ。

 

macの辞書アプリで検索すると、

 

ùn・tóuch・a・ble 

形容詞

〈人が〉(権威などのために)手出しをされない, 批判されない, 罰せられない.

触れることのできない, 手の届かない. 

比類のない, 無敵の. 

不可蝕賤民(せんみん)の, けがらわしい. 

触れてはならない. 

名詞C

〖しばしばU-〗不可触賤民〘かつてのインドでの最下層の人〙. 

 

 

 

映画「アンタッチャブル」は、禁酒法時代のアメリカで酒を扱いたい犯罪組織とそれを阻止しようとする政府側の闘いを描いているが、そのタイトルのアンタッチャブルとは"賄賂に屈しない"という意味だ。

 

辞書を見れば分かるように、身分として最上位の特権階級も最底辺も言葉上は同じになる。

 

はっきりと書かれたものは無いが、色々検索すると、元の意味は不可触賤民を意味するもののように感じられる。

 

もとの意味が生まれた頃は、自由が少なく、差別的身分制度があったのだろう。

 

しかし、その最下層に属してる人が自由を手に入れかつ特権を手に入れた様な時に、出自を知るものが畏敬の念を込めて"手出し出来ない"という意味で使いだしたのではと想像する。

 

恋愛だけならば何の障害も無かった眞子さまと小室さんの間には、結婚となると超えなければならない大きな大きな見えないアンタッチャブルがあったようだ。

 

北風と太陽

今週のお題「ひな祭り」

下町の町工場が、その技術力を世界に発信するために、無償でボブスレーの開発をするようになったのは2011年からだ。

 

最初は、日本人選手のために行われていたが、2015年の11月にボブスレー連盟から2度めの不採用通知を受取り、それ以降海外チームへのオファーを行い、2016年1月にジャマイカチームに採用が決定され、その後正式に契約された。

 

1993年の映画「クールランニング」は、雪が降らない南国ジャマイカが冬季オリンピックにボブスレーで参加したことをコメディタッチに仕立て上げたものだ。

 

この映画のイメージでジャマイカのボブスレーチームを見てると、オリンピックに出ることは勝つことより参加することに意義を感じてるんだろうなと勝手に想像してしまいがちになる。

 

ボブスレーを無償で提供するために、地元大田区の支援を受けたり、寄付を受けたりしながら、そして実際には町工場の持ち出しもあり活動が継続されていた。

 

だから、下町の町工場に感謝することはあっても、不満を持つことは無いであろうと思っていたので、このニュースには驚かされた。

 

 

町工場の夢が暗転=下町ボブスレー、損害賠償請求へ〔五輪〕 2018/02/05

そりを無償提供していたジャマイカ代表チームから、9日開幕の平昌五輪では使用しない旨の連絡を受けたと発表

 

ジャマイカは下町ボブスレーを使った女子2人乗りで平昌五輪の出場権を獲得。しかし、昨年12月のドイツでのワールドカップ(W杯)に輸送トラブルでそりが届かず、ジャマイカはラトビア製のそりで好成績を挙げた。これをきっかけに、下町ボブスレーの品質への批判や改良要求が出るようになったという。

 

 

 

 

ここでは、ボタンの掛け違いのようなトレードオフが発生してる気がする。

 

ジャマイカ側にとっては、"勝ちにこだわる気持ち"と"無償"であり、町工場側にとっては、"無償"と"技術力を発信"と、私は感じるが違う意見もあるだろう。

 

私のような見方をすると、ジャマイカが求める勝ちへのこだわりを満足させる技術力を町工場が見せることができなかったとも言えるし、町工場が無償で提供できることには限界があるという見方も成立すると思う。

 

 

上記の記事によると、契約上ではジャマイカチームが下町ボブスレーを使用しなかった場合、損害賠償を請求できるらしい。

 

 

契約では、使用されなかった場合に推進委はそりの開発費と輸送費の合計額の4倍となる6800万円の損害賠償を請求できるという。

 

損害賠償を請求するのは、正当な権利であるとともに、両者の関係を完全に冷え込ませるものになるという意味では、捨て台詞を浴びせる行為にも感じる。

 

それと似たような話が、話題になっている。

 

はあちゅうさんの「金を出さない人はファンじゃない」発言にとても悲しくなった 2018/2/5

彼女が本当に「自分がクリエイターである」と思っているのなら、本当のクリエイターにとても失礼だ。本気で表現しようとしている人への愚弄である。

 

今の考え方のままなら、絶対に別の商売をやったほうがいい。ファンの気持ちを考えられない人に、クリエイターは向いていない

 

 

 

 

 

同様に最近一部で話題なった下記の話は、論点がチョット違うが印象は似ている。

 

「古本屋に売る」は悪なのか? 「著者のためには捨てるべき」説に議論百出 2018/2/ 4

古本屋で書籍を購入しても、作者に印税などの収入が入らない――この問題は、以前から議論されてきた。特にブックオフなどのいわゆる「新古書店」が台頭した2000年代からは明確に「脅威」と認識され、著作者団体などが新古書店での取り扱い中止を求める声明を出したり、使用料の支払いなどが議論されたりしたこともあったが、20年近くが経った今も明確なルールは整っていない。

 

 こうした背景もあり、ネット上では「捨てるべき」論に、賛同の声も多い。

 

 

 

 

この古本や中古本の扱いは、お金が誰に入るかを巡って議論されるが、この話題に図書館が加われば、上記の先に上げた2つの話題とも重なる。

 

一見正論だが、"お金"を口にする人達の口調は、冷たくきついトーンに感じる。

 

そんな時思い出すのは、イソップ童話の『北風と太陽』。

 

南国ジャマイカから吹いてくる冷たい悪意に満ちた北風だが、北風に北風を返すというのは作戦としてどうだろうか?

 

下町ボブスレーは、もともと"太陽"でありたいと思ってスタートしたような気がするし、その方が似合う。

 

 

今の日本は真冬で、今日は特に寒い、だから余計に太陽の有り難さを感じる。

 

夏だと北風にもう少し魅力を感じるのかもしれないが、"正論だけど北風"よりも"回り道でも太陽"の生き方を選びたいと感じた。

仮想(virtual)の反対語はphysical!

今が旬の『仮想』という言葉は、“物理的には存在しない”と言う意味で、英語で言うと“virtual”となる。

 

だから、その反対語は“real”となり、日本語では“現実”となる。

 

辞書的にはこれが正解だが、英語圏特にアメリカでは、virtual(仮想)の反対は“physical”の方が近いと解されてるようで、日本語で言うと“物理的、物質的、身体性がある”となり、人間が五感で感じられるものとなるらしい。

 

今後“仮想”と銘打ったものが増え、問題を起こすとすれば、仮想はphysicalではないと言うことに起因して起きる可能性が高くなる。

 

最近世間の話題の中心になっているコインチェック事件だが、投資家がどのような扱いを受けるかは要注目だ。

 

現在、仮想通貨を巡っての議論は法の整備が追い付いてないということで取り沙汰される事が多いが、第1は課税をどうするかで、それ以外は後回しになりそうだ。

 

そんな法が未整備な仮想通貨に関して、日本では既に重大な判例が出ている。

 

 

仮想通貨に所有権はないとも解されている判例が、わが国で出されている。

 

それは、2014年に起きた、ビットコイン交換業者大手のマウントゴックス社の破産に絡むビットコイン引渡等請求事件に対して、東京地方裁判所が2015年8月に出した判決だ。

 

判決の詳細は、法律の専門家に委ねるが、ごく簡単に説明すると次のようになる。

 

原告は、マウントゴックスに預けていたビットコインの所有権を主張し、ビットコインの引き渡しを求めた。

 

それに対して判決は、ビットコインは有体物ではないから所有権を主張することができず、引き渡し請求は認められない、というものだった。

 

結局、この裁判は原告が控訴しなかったため、これで確定。マウントゴックスの破産自体も、ビットコイン取引に衝撃を与えたが、破産後に起こされたビットコインの引渡請求訴訟に対する判決もまた、衝撃を与えたのであった。

 

ビットコインへの「税金」は、これだけかかる 譲渡益に対しては最高税率45%の所得税

 

 

 

仮想であるが故に所有権が否定されたようにも見えるが、それだけでもない。

 

仮想通貨ではなく、銀行預金だったらどうなるかと言うと、1金融機関あたりで最大1000万円までしか保護されないし、銀行預金に対して私たちは所有権を主張することはできない。

 

私たちが銀行預金に関して銀行に主張できるのは、債権があることの主張だけだ。

 

だから、銀行は無い袖は振れない場合、『はれのひ』と同じ結果になる。

 

理屈はそうでも、多くの人はそのことに備えようとはしない。

 

それは、銀行には信頼があるからだが、『信頼』も仮想であることを改めて思い知らされる。

 

銀行に対する信頼と、リアルなお金に対する信頼は限りなく似ている。

 

お札や硬貨は、所詮紙切れや金属片に過ぎないという意味では『信頼』という仮想性に依存している。

 

お金には仮想性があるのに信頼がおける理由の一つは、物と物の交換の仲介物としてスタートし、physical性の裏付けがあったからだ。

 

心に関するものは、全て仮想性がある。

 

心に関するものは仮想性があるのに、厄介なことに実感が伴う。

 

実感はあるのに、五感を直接刺激されてるわけではない。

 

だから、心に関することは煩悩に通じるのだろう。

 

今後あらゆる分野でリアルと仮想の境界がどんどん曖昧になるだろう。

 

そんな時、煩悩に打ち勝ち、道に迷わないようにするためには、physicaiを大事にすることだ。

 

そう考えていると、”走れメロス”を思い出した。

 

太宰治が”走れメロス”を書く発端になったとされる下記のようなエピソードがある。

 

懇意にしていた熱海の村上旅館に太宰が入り浸って、いつまでも戻らないので、妻が「きっと良くない生活をしているのでは……」と心配し、太宰の友人である檀一雄に「様子を見て来て欲しい」と依頼した。

 

往復の交通費と宿代等を持たされ、熱海を訪れた檀を、太宰は大歓迎する。檀を引き止めて連日飲み歩き、とうとう預かってきた金を全て使い切ってしまった。

飲み代や宿代も溜まってきたところで太宰は、檀に宿の人質(宿賃のかたに身代わりになって宿にとどまる事)となって待っていてくれと説得し、東京にいる井伏鱒二のところに借金をしに行ってしまう。

 

数日待ってもいっこうに音沙汰もない太宰にしびれを切らした檀が、宿屋飲み屋に支払いを待ってもらい、井伏のもとに駆けつけると、二人はのん気に将棋を指していた。

太宰は今まで散々面倒をかけてきた井伏に、借金の申し出のタイミングがつかめずにいたのであるが、激怒しかけた檀に太宰は「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」 と言ったという。

 

後日、発表された『走れメロス』を読んだ檀は「おそらく私達の熱海行が少なくもその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた」と『小説 太宰治』に書き残している。

 

 

 

この呑気なエピソードが、”走れメロス”という感動の物語になるのは、ひたすら走り続けるというphysical性にある。

 

最近、スポーツを見るだけでなくすることに意識が向かいだしたり、美容を意識する人たちが筋トレをしたりすることが話題になることが多いが、それは表面的には”健康的な生活”という捉え方で語られる事が多いし、私もそう思ってた。

 

しかし、世の中が仮想(virtual)指向になってることへの抵抗であり、反動なのかもしれないと思い始めた。

 

 

『健全な精神(心)は、健全な肉体に宿る』

 

 

今や周回遅れの死語になったと思われていたこの言葉は、一周先を行ってる実は凄い意味を持っていたのかもしれない。

かかとを上げろ!

ドラマ「陸王」で有名になった『ミッドフット着地』という単語。

 

これは、走るというのは小さなジャンプの繰り返しになるのだが、ジャンプした足をどう着地させるかという場合の一つの方法で、荷重が足の裏全面に分散するような着地を指している。

 

ランニングの着地のことを英語では”strike(ストライク)”と言う、”landかなと思っていたが違った。

 

調べてみると、strikeには「軽くこする(触れる)」というニュアンスがあるらしい。

 

他に、つま先から着地する方法や、かかとから着地する方法がある。

 

速く走りたい場合には、つま先>ミッドフット>かかと となるらしい。

 

速さで劣るにも関わらず”かかと着地”が存在するのは、靴の違いで結果が大きく違うからだ。

 

結果、靴のソールの性能に依存するようになり、今年の箱根駅伝でナイキのシューズが話題になったような靴ドーピングに繋がりやすい。

 

 

今回こんな出だしで話を始めたのは、『かかと』をテーマにしたかったから。

 

きっかけは、今朝のNHKのBSで見た岩合光昭の世界ネコ歩きmini「前足出して」「ネコのかかと?」だ。

 

ネコの”かかと”とはどこか実は知らなかったということがわかった。

 

歩いたり走ったりしてるしてる時、地面に触れてるのはつま先なのだ。

 

〜結局〜ネコの後足のかかとってどこなんですか?

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ネコのかかとの正解はC。

 

Aはつま先で、ABC全部足の裏。

 

じゃあ、このかかとどんなときに使うのか?

 

 

座ってる時。

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画像引用は下記サイトから

http://www.mensnavigation.com/nekozekokuhukumatigatteirutadasiisisei/

 

 

この写真のようにのんびりしてるときもかかとを使うが、ネコらしいのはジャンプしようとする時だ。

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画像引用は下記サイトから

https://www.min-petlife.com/24253

 

かかとを意識すると必ずつま先とセットになることに気付く。

 

 

ネコと人間を比べてもあまり意味がないかもしれないが、ネコの足使いのような動きをする人達がいる。

 

バレリーナと言われる人達だ。

 

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バレリーナの画像は下記サイトより引用

https://blogs.yahoo.co.jp/dk51821/39995809.html

 

驚異的な身体能力を持つバレリーナだが、それ故の固有の悩みを抱える人も多いようだ。

 

三角骨障害 :バレエダンサーさんの治療院

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ネコやバレリーナの動きを真似しろという話ではなく、その動きには参考になるものが多い。

 

その要は、①強靭な筋力に裏付けられた身体能力と②軽い体重だ。

 

この2つが超高いレベルで両立すると一流バレリーナになれる。

 

我々が目指すのは、かかとを上げた(=つま先立ち)の動きが辛くない程度の体に仕立て上げ、それを維持する程度はできたほうが良いだろうと言うことだ。

 

「かかとを上げる」で検索すると、たくさん出てくる。

 

ダイエットや美容を意識した場合に有効であることが伺える。

 

現代社会で普通のつもりで生活してると、歩く以上にかかとを上げる機会は本当に減っている。

 

歩幅が小さければ、かかとを全く上げてないかもしれない。

 

街に出ていろいろな人の歩き方を見てると気付くが、かかとが上がらない人は老若男女問わず、姿勢が悪く元気がなさそうで、そんな人が本当に多い。

 

早足で歩くことを意識してる人も多いが、そのせいで”すり足”のような動きになってる人もよく目にする。

 

すり足でも剣道のような動きの場合は、かかとは上がっている。

 

道具もいらずどこでもできるかかとを上げるという動作は、習慣にして損はないだろう。