芸能人がマネージャーと恋愛関係になることは業界ではご法度とされている。
このケースが発覚する場合、芸能人側は女性であることが多い気がする。
このような場合、ワイドショーや週刊誌ではスキャンダルとして扱われ、マネージャーが『商品』に手を出したというトーンで取り上げられる。
人間を商品として扱うことに違和感を感じさせない数少ないケースの一つだろう。
人気芸能人の場合、華やかなイメージと実際の生活の充実も両立してるのだろうという羨望もあるので、商品として扱われても蔑んだイメージを与えないからかもしれない。
しかし、借金のために風俗業界で働くことを余儀なくされたような女性に対して"商品呼ばわり"すると弱者をいじめる印象を与える。
一般的に、商品とはモノやサービスだと考えられている。
では、商品が人間の場合というのは、何を指すのだろうか?
芸能人の場合、演技や歌になるのだろうが、それらを見せて披露するという意味では、顔やスタイルなどの外見であり、聞かせて披露する側面もあるので声やしゃべりも重要な要素だろう。
そして、企画力やアイデアも加味して得られた総合的なパフォーマンスが商品と言えるかも知れない。
総合されたパフォーマンスという捉え方をすると、プロのスポーツ選手も”商品”の中に入ってくるだろう。
既に有名人になってる人を頭に浮かべた場合、その人が商品扱いされることに対してあまり違和感を感じないが、有名人になる前の”一般人”の時代からどうやって”商品”の地位にまで登りつめたのだろうかということが気になる。
新人がデビューすることを考えると、芸能界とスポーツ界では少し違いがあることに気付く。
スポーツの場合、草試合や学校教育の中でその能力が徐々に花開き世間の注目を浴び、やがてプロの目に留まるというプロセスがイメージしやすい。
この場合は、知る人ぞ知る存在から徐々に認知が拡大する。
地元のスポーツ好きの間で話題になることから広がり、そのスポーツに関心がある多くの人に認知の裾野が拡大する中で、マスコミに話題として取り上げられ全国区の存在になるというプロセスがイメージしやすい。
全国区の最初は、マスコミ側の取材で発信され、スポーツに関心が薄い人にも情報として届くようになりだす。
こうして、一般人が有名人化していく。
スポーツの場合は、徐々に段階を踏むことがイメージできるが、プレーやパフォーマンスが、尺度として数値化され客観的な評価に晒されるという特徴がある。
それに対して芸能界では、一般人から有名人へのシフトは”ある日突然”というイメージがある。
登竜門的なイベントや番組で注目を集めることで一気に有名人になれるイメージがある。
実は段階を踏んでいるのだが、認知は一瞬で起こる傾向があるように感じる。
キッカケはどうであれ、一旦有名人になると一定の成果を求められる。
パフォーマンスの質と集客力の両方が求められる。
それを支えるように、告知としての広告宣伝が仕掛けられ、パフォーマンスを知らしめるための場がマスコミ上にも設けられる。
①何らかの形で注目される⇒②注目を評価に変える⇒③広告宣伝でさらに知ってもらう⇒④(マスコミ等で)大きく取り上げてもらう⇒また①に戻りループを繰り返すことが好循環になる。
人が”商品”である場合の私のイメージが以上なのだが、これって今では一般人にも求められてるような気がする。
有名人は目立とうとするのに対し、一般人の中には目立つのは嫌だと思う人も多いだろうが、結果を求められるという立場は全ての人に当てはまる。
差別化のポイントは、何で結果を出すのかという意味での『パフォーマンス』をどうするかという問題になる。
厄介なことは、パフォーマンスは伝わらなければゼロだということだ。
努力したとか、頑張ったというのは、評価にはあまり関係ない。
評価が高い場合には、「頑張ったんだね」「努力したんだね」と言ってもらえる。
では、最近の"一般の商品"はどうかというと、
サラリーマンやってると、「売りたくないものを売らなくてはいけない」瞬間があったりする。
— イケダハヤトメモ(リプは全自動) (@ihayatobot) 2018年2月5日
ぼくはそれが耐えられませんでした。
自社サービスよりもいいものがあるけど、会社のために自社サービスを売らないといけない」。
これは超絶苦痛で、そのまま続けると人格が壊れていく。
この意見に頷く人は多いだろうけど、最近『商品』の定義が変わってきてるような気がする。
単純にモノやサービスとして見た場合、優劣の差が殆どなくなってきて、差別化ができなくなっているので、簡単に伝わる一目瞭然性が低いと言える。
優劣を尺度とした魅力では人を惹きつけることができなくなっている。
つまり、伝え方が問われる。
使ってみたいと思わせるのは、商品の魅力よりも、”魅力の伝え方”の方が重要になっているのかもしれない。
あてがわれた商品だけが商品ではなくなってきている、魅力をどう伝えるかというのは、立派なパフォーマンスで、それ自体が商品と一体化する。
そう考えると、すべてのビジネスが商品単体で売れる(=評価される)時代ではなくなってきている。
誰が"どのように"売ってるかが重要になり、買う人は"どのように"に惹かれて行動するようになる。
この"どのように"の部分を担っていたのが広告宣伝だが、マス向けの情報では心を動かす力が弱まり、代わりにSNSが注目されているのが今だ。
だから現在のSNS上では、ステルスマーケティングやポジショントークが中心を占めている。
その際のキーワードが、『リア充』や『インスタ映』で、流行り言葉ではあるが、意味する中身はかなり古典的だ。
キーワードや世間の動向を分析し方向性を見出そうとすると、結局皆が同じところに集ってくる。
資本主義社会は、そういうことを何十年も続けている。
そういう流れに慣れた現代人は、時間差はあっても結局同じ方向を目指してしまうが、本音は"違いたがっている"。
これまでは、先頭を走る人が最初に違う方向を向き、その後から追随する大勢の人々という図式だった。
しかし、少し前まで追随する側だった人が、先に違う方向を向きだした、その方向に追随する人は、方向性への共感を感じてることが多い。
あるいは、向かうところは同じでも手段や方法を変化させ自分流で行動する人も増えている。
このような少人数で構成される動きは、追随しようとする場合、具体的にどのように行動すれば良いかがわかりづらくなり、結果的に動いた人の動きには独自性が出る。
集中から分散の時代と言われてるが、分散はそうして始まっている。
新しく生まれた傾向は、一定期間続くものだ。
音楽の「CD離れ」がさらに加速、世界最大の家電量販店でもCDの販売が終了へ 2018/2/7
音楽業界はいま、「アルバムを作って売って活動する」というスタイルから「ネット販売やネット配信、YouTubeの露出で知名度を上げて、ライブに来てもらう客の数を増やす」という形式に大きく変化しているといわれています。
また、その他にもクラウドファンディングで活動資金を広く集めたり、「パトロン方式」で活動を資金的にサポートしてもらうなどのスタイルが生み出されていますが、まだまだ主流とは言いがたい状況にあります。
業界全体の売上の低迷は、ほぼそのまま音楽アーティストの活動に影響することになるので、今後どのように状況が変化するのかは、ひいては音楽ファンにとっても無視することができない関心事になるといえそうです。
経済成長の時代は、集中の時代だったが、集中に活路が見出だせなくなってるとすれば、反対方向の分散の動きが注目されるのは自然な話だ。
今、"分散の動き"が動き始めたとすれば、マス向けの情報や行動は、反応が得られないものになっていき、商品はモノから"その人"に移行し、パフォーマンスで差別化される。
集中から分散へ時代が動けば、従来のカテゴリーでは分類不可能なことが増えてくる。
男性や女性という一見疑いようがない分類も"偏見"となるかもしれない。
「男子でも女子でもない」中高生、米国で増加 :CNN 2018.02.07
(CNN) 自分の性別を「男子でも女子でもない」と認識する中高生が増えているという調査結果を、米ミネソタ大学の研究チームが発表した。
学校や医療機関は性別に対する狭い見方を捨てて子どもたちの認識への理解を深め、健康状態の偏りを解消する取り組みを継続する必要があると研究者は提言している。
分散化が進むと趣味嗜好の分野も変化が訪れる。
「1年間洋服を買わないチャレンジ」が妻にもたらした劇的な変化
「できるはずない」と思っていたら… 2018/2/8
妻の松尾たいこが「1年間洋服を買わないチャレンジ、ってのに挑戦する」と言い出した時は、「まあ単なる思いつきだよね」と私はほとんど相手にしていなかった。彼女が根気がない人だからではなく(いや、どちらかといえば根気はある人だ)、ほとんどマニアックなまでの情熱を衣服に捧げているファッショニスタが、そんなことできるはずないと思ったからだ。
スタイルの変化は、人生を変え、社会を変えていく。
何はともあれ、『180度反対の価値観』を意識し、そちらに行動をシフトすることは新しい発見があることは間違いない。
分散化が進むと、人が商品になり、人が商品になるということは、生き方が商品になるということだ。