違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

敵(1)

相反する考え方のどちらもがそれなりの説得力を持ちながら、同時に存在することがある。

 

例を上げると、

 

 

『友達は大勢いる方が良い』

 

 

 

 

『友達はいなくて良い(一人いれば十分)』

 

 

 

"友達100人できるかな〜♫"と言われながら育つことが多いことを考えると、教科書的な正解は友だちが多いほうが良いとなるのだろうが、実際にはそう思わない人が意外といるからこそ、『友達はいなくて良い(一人いれば十分)』という意見を持つ人が存在する。

 

アメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)の心理学の研究で、"友達の数が増えれば増えるほど孤独になっていく"、という結果が得られたらしい。

 

 

この話は、SNS疲れと呼ばれる現象を説明する際に用いられることが多い。

 

"友だちが多い方が良い"という考え方の前提には、おそらく"人は1人では生きられない"という考え方があるだろう。

 

人類の歴史を振り返ると、まさに1人では生きられないことの連続だったのだ。

 

友達であるということよりも、助け合う必要があったのだ。

 

助け合うことができたのは、利害の一致のおかげだろう。

 

利害が一致してるという認識など無いほど、生きることは困難だっただろうから。

 

そんな時代、敵は大自然や安全を脅かす人だっただろう。

 

こうやって考えると、友達や仲間というのは、安全を脅かさず共に行動できると言う意味での身内に近い捉え方ができるだろう。

 

そんな友達という存在に、両極端な解釈が成り立つようになったということは、生きることの困難さの種類が変化したからだろう。

 

生きることの困難さが変化したということは、"敵"が変わったということだろう。

 

大自然を敵に回し、大自然を凌駕しようとした人類は、現在それが不可能であることを思い知らされている。

 

大自然は、敵ではなく共存すべき身内だったと気付いた。

 

 

では、現代では何が敵なのだろうか?

 

こういう場合、宗教の世界では人間が持つ欲や煩悩を敵とみなすが、欲や煩悩を肯定的に捉え考えてみた。

 

人間は、基本的に競争したがる、俗に言う功名心があるからだろうが、今風に言うなら承認欲求が強いとなるだろう。

 

大勢の人が、自分なりに承認欲求を満たそうと日々奮闘してるが結果はピンキリだ。

 

良かれと思って行動することがちっとも結果に結びつかないということが、分野を問わず起きている。

 

疑うべきは、良かれと思ったそのやり方だろう。

 

現代のキーワードが"共感"だとよく言われるし、少々陳腐化した印象もあるが、共感はいつの時代でも重要だろう。

 

大事なことは、共感と反感は紙一重だと言う点だ。

 

反感は、炎上に繋がる場合もあるが、ほとんどの場合は無視に繋がる。

 

ある人からは共感を得られた話が、他の人からは反感を買うということは、日常にはよくある。

 

この現象が、顕著になったのはテレビが普及してからだと言われてる。

 

ちなみに、テレビで反感を買ったことと同じことをラジオで話した場合、反感を買う割合はぐんと減る。

 

ラジオでは、話す内容だけが伝わるからだ。

 

反感を買うとすれば、喋った内容に対する反発以外だと、しゃべり方や声質だろう。

 

テレビになると、ラジオにプラスしてビジュアル情報が伝わる

 

つまり、話してる内容が大事なテーマだとしても、内容以外の情報、特にビジュアル要素がそれをジャマするのだ。

 

情報が多いと、誤解も多くなる。

 

 

著名人がスピーチをする場合に、スピーチライターは原稿をチェックするだけでなく、ビジュアルチェックを行い、マイナス要素を排除することに努める、どうでも良いことで足元を掬われることが多いからだ。

 

このどうでも良いことに起因した誤解から生じたイメージが定着すると、話の内容で勝負できなくなる。

 

だから保険を掛けるように、共感を集めてるテーマや人に話題が集中し、ビジュアルを似せようとする。

 

流行して露出が増えると、一発屋芸人化が起き、飽きられるのも早く定番になりきれない。

 

人もモノも何もかもが、現れては消えるを繰り返すことと、既に存在する定番の使い回しを続けている。

 

 

また、インターネットが普及し検索技術が向上したことで、嘘や矛盾はバレやすくなっている。

 

しかし、真実かどうかはわからないことも多いし、それ以前にどこまで本気でそう考えているかがわからない情報も多い。

 

敵は、思わぬところにいることを意識する必要がある。

 

しかし、検索するだけで多くのことが分かるネットの世界も二極分化している。

 

そもそも検索してる人はごく一部らしい。

 

2年前にヤフージャパンが調査したビッグデータによると、日本で検索してるのは東京の人だけという結果が出ている。

 

日本は2つの国からできている!? ~データで見る東京の特異性~ 2016/3/8

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このグラフは人口一人あたりの差なので、東京の人口が多いこととは関係ない。

 

東京に隣接してても差が大きいことを見ると、首都圏という括りも当てはまらない。

 

かつての情報格差は、発信されてる情報を受け取る術がないことから起きていたし、これが都会と地方の大きな格差を生んでいたが、現在では検索するだけで接することが出来る情報にアクセスする意志の有無という格差が生じているのかもしれない。

 

今の日本で生きていると、情報格差があると感じてる人は少ないだろうが、思わぬところでどんどん差がついているかもしれない。

 

"ググれカス"と言う言葉がある。

 

検索するだけで分かることすら検索しないで、「わからない、知らない」と言う人々を揶揄することばだが、最近は検索しても求めるものが出ないことが増えたと言われる。

 

この状態を、"ググってもカス"と言うらしい。

 

 

なんだか長くなりそうなので、続きは改めて。

 

今日書いたことは前置きで、書きたいことは、世の中の変化は過去からの連続性があり、繋がっていると感じがちだが、そうではないかもという話。

 

『フェイク』は、次世代のキーワードかも?

日本人が考えていることはわかりづらいと言う外国人の話を良く聞く。

 

最近は、以前に比べるとずいぶん改まっている気もするが、そのわかりづらさは日常のコミュニケーションだけでなく、決算書などにも見られた。

 

日本企業と取引を希望する海外企業が、その判断基準とするために決算書を見ても知りたいことがわからないと言われることが多く、21世紀に入った頃から国際会計基準を適用せざるを得なくなってきた。

 

決算書が読みづらいのは外国人だけではなく日本人もだったので、『できるビジネスマンは決算書が読める!』と銘打った本が本屋にはたくさん並んでいた。

 

そんなわかりづらさは、恋愛にもあった。

 

「ねぇ、どうして日本人はフェードアウトするの?」

様々な人の経験談を聞いて感じたことは、自分の意見を言ったり感情を伝えることに慣れている外国人と、そうじゃない日本人との間ですれ違いがおきているということ。

 

突き詰めたら奥が深そうな議題…。ただ友人の話を聞いて、丁寧なコミュニケーションは大事だと改めて思い知りました。だって、もし自分がフェードアウトされる側だったら本当にイヤですから。

 

 

 

日本で生まれ、日本で育つと、自然に身に付く"察してよ!"という遠回しの拒否に関して、したことも、されたことも、あると言う人は多いだろう。

 

遠回しに表現することを、古典の授業で、「婉曲的表現」と教わったが、日本的な文化の背景にしっかり染み付いている。

 

おそらく、察する、忖度、などは婉曲的表現が当たり前だから生まれたもので生活全般に及んでいただろう。

 

現代でもこの文化は生きているが、わかりづらいということだけは、ほぼ全ての人が感じているだろう。

 

それでも、コミュニケーションを取り合う双方が"察する"ことを前提にしてれば、コミュニケーションは現代でも辛うじて成立するだろうが、わかりづらさはつきまとう。

 

しかし、片方は察する気が全く無く、もう片方は察してほしいと思ってるような場合、大きなトラブルに発展することがある。

 

熊本地震で全壊した老舗時計店に届いたセイコーからの非情な取引終了の告知に衝撃が走る

 

 

 

少々炎上気味なこの件は、日本国内では類似案件がたくさんあるだろう。

 

ビジネスライクに事を進めることを、情が薄いと感じる日本人は多いが、それは契約書に不慣れなことから起きる。

 

契約書が有効なのは日本が法治国家だからだ。

 

検索して少し調べると、実態はともかく日本が法治国家になったのは明治維新以降。

 

それ以前は律令国家だった。(教科書で見たことがある言葉だ)

 

律令と言うのは現在でいう法なのだが、決定的に違うのは国家の有り様で、大多数の国民は実質的に奴隷で強制的に農業か兵役に就かされていたらしい。

 

律令が機能しなかったのが、戦国時代。

 

察する、忖度は、そんな律令時代の生き様に源がある卑屈な行為だが、多くの日本人の家庭や教育の現場で受け継がれているだろうから、なかなか無くならない。

 

察したり、忖度したりしながら付き合うことは、""があると呼ばれ、法や契約と対立しながらも曖昧な落とし所を見つけ折り合いをつけ続けた日本だが、もう落とし所が無くなりつつある。

 

良い悪い、好き嫌いで反応していると、大事な判斷を誤る可能性が高くなる。

 

情がある現場には、セットで"おんぶにだっこ"がある。

 

これは、関係性が対等ではないことを意味してる。

 

 

 

やっぱり、何かが終わりつつある。

 

 

 

終わりつつあるものとはなんだろうか?

 

・一つのことを長くダラダラと続けることに価値があると思うこと

 

・好きなものを好きだと、はっきり言わない

 

・イヤなことをイヤだと、はっきり言わない

 

・うまくいかない時に、恨み言を言う

 

・自分より相手を信じる

 

終わりつつあるものを考えていると、こんな話題があった。

 

これも炎上中で、炎上の主は高須克弥先生だ。

 

 

高須先生に、こう言わせた元ネタはこれ。

 


「若者の○○離れ」の原因はコレ?新聞の投書欄に寄せられた「お金の若者離れ」にハッとさせられる

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終わりつつあることの中には、"金は天下の回りもの"があるかもしれない。

 

お金の不思議さは、それ自体に価値が無いのに、価値を生み出すこと。

 

その価値は"信用"という錯覚のうえに成立するので、"赤信号皆で渡れば怖くない"とほとんど同じだ。

 

 

金が天下の回りものでなくなったら、別のものあるいは別の仕組みが代わりを果たすことになるだろう。

 

 

 

面白い考え方に最近接した。

 

 

お金はフェイクであるという考えで、これはお金が生み出す価値は信用という錯覚の上に成立すると言う意味だと私は取った。

 

お金の持つフェイク性が、芸術にもあるという考えだ。

 

それ自体に価値が無いものが、価値を生み出すことは変わらないかもしれない。

 

最近話題になるフェイクは、フェイクニュースのように露骨に嫌われるが、良く考えるとフェイクなお金はもてはやされるのは不思議な話だ。

 

フェイクは、次世代のキーワードの一つかもしれない。

 

このことばにもアンテナを張ってみたい。

朝型?夜型?

いつの頃からか、夜に考え事をすることをやめるようになった。

 

夜に考えたことの多くは、翌日太陽の下では全く通用しないことに気付かされることが増えてきたからだ。

 

夜に考える事の多くは、自分に都合良く考えがちになるという傾向が私にあることが良くわかった。

 

私にとっては、夜の考え事は妄想とほとんど同じ傾向にあるのは何故だろうかと考えたことがある。

 

最近は薄らいだが、以前は夜に考えることはネガティブなことも多かった気がする。

 

自分に都合良く考えたり、ネガティブになったりするのは、"夜"のなせる業なのかもしれない。

 

 

昔から、夜にはお化けが現れたり、悪いことが起きるのは当り前だった。

 

夜になると、昼間の自分と違う別の人格が現れやすいのかもしれない。

 

人間には多面性があると言われるが、昼間の自分が考えることと、夜の自分が考えることの差や違いはどう解釈すればよいのだろうか。

 

 

 

それは自分の意思なのか?

 

 

 

こんなことを思い出したのは、次の二つの女性目線での結婚観に関する記事を見たのがきっかけ。

 

作り話であることは百も承知だが、リアリティを盛り込むことは忘れてないだろうと考えると、モデルになった実在の誰かがいるだろうなとは想像できる。

 

 

【婚活サバイバル】アラフォー婚活女と、“不自然な出会い”で出会う人たち~その1~ 2018/5/6

婚活サイトは不自然な出会いだと言う人が多い。私だって自然な出会いだと言い切るつもりもないが、SNSのおかげで、連絡をとるほどでもなかった疎遠になっていた昔の知人とつながったり、知らない人となにかのきっかけでつながったりすることができるようになった現代では、いまどきであってそこまで不自然なことではないかもしれないとは思っている。

 

その2~

低体温女子の私は会ってもいない人に好意は寄せないし、会ったってすぐに発熱するタイプでもない。だからもちろん、そんな展開になるような思わせぶりな会話はしていないはず。

 

大人になると、女性よりも男性のほうが、恋愛とか結婚に対する妄想が強くなっていくのかもしれないって最近思う。

 

世の中には、関係は作るものではなく勝手にできるって思っている人が多かったりするのかも。もしくは、自分は本当に素のままでいてなにも努力せずにいられるくらいの理想どおりの人がどっかにいるって思っていたりするのかな、こういう人って。

 

 

ある婚活仲間のお姉さまに、「アキ子は情をかけすぎ! そして相手を信じすぎ。もっと非情でいいのに。いちいち心を持ち出していたら、婚活なんて持たないよ!」と言われた。

 

 

 

婚活をする男性側はどう感じてるのだろうかと素朴な疑問が湧く。

 

男性の婚活でよくある勘違い-これを正さないとあなたは結婚できません-

 

 

記事を引用しようかなとも思ったが、婚活がうまくいかない男性の中にはバカとしか言いようのない人物がいることがわかる、またそういう人物に限ってプロフィールは悪くなかったりするかもしれない、そんな事例の数々が女性の学習を高めているのだろうと、女性側に若干感情移入できる気がしてくる。

 

ふと思うのは、バカな男が出没するのは夜の婚活パーティーが多いかもしれないということ。

 

夜考えることに妄想が多いのは、男の特徴かもしれない。

 

婚活に真剣に取り組んでる女性は、土日の昼間開催のパーティの方が良い出会いがあるかもしれない。

 

ところで、上記の婚活女性の話はアラフォー世代の話だが、アラサーの既婚女性の話も今日見かけたが、これを見て思ったことは、結婚はもはや商品の当たりハズレと同列のものになってきてるなということだ。

 

結婚してよかった…! 自分の夫を見直した瞬間 2018/5/6

平気な顔で虫退治をしたとき

 

機械系、家電系に強いとき

 

嫌みを言ってきた義母に堂々と対応したとき

 

歩き煙草を注意しているのを見たとき

 

自分の代わりに怒ってくれたとき

 

 

 

この記事のアラサー女性のリアクションにどのくらいの女性が賛同するかは不明だが、結婚に限らず、あらゆる人間関係が相手を利用しようとするものに変化してきてることを感じる。

 

こうなった背景には、やはり生き辛くなってるという時代の変化があるのだろう。

 

櫻井よしこが106歳の母を介護して考えた「日本的家族のあり方」 2018/5/4

自分から能動的に切り開いていかないかぎり、人生の道は開けないものです。

一方で、私たちは「共助」の伝統を取り戻す必要があります。日本には伝統的な美風として、富める人も貧しい人も、自分は後回しにしてでも他者を思いやる価値観が根づいていました。ところが近年、自分さえよければいいといった精神的な堕落と退廃が目立ちます。また、欧米の富裕層は寄付や還元に積極的ですが、対照的に日本の富裕層に慈善行為があまりみられないのは残念です。

 

"自分さえ良ければ"と見える行動の多くは、実際には"自分が求める最低ライン"へのこだわりで、それをクリアしなければそれ以外に意識が向かわない状態なのだろう。

 

経営学では、新しいことに挑戦する時に「自分はやればできる」という自信や、セルフエフィカシー(自己効力感)を備えていることが重要だと説くが、それらが不足すると相手を利用しようとしだす。

 

日本を覆っている負の連鎖に"夜型の思考"が関係しているような気がする。

 

バブル崩壊以降の不景気とリンクするように日本では太陽光が悪者扱いされるようになった。

 

太陽光を避け始めた日本人は、昼間でも夜型思考に陥ってるような気がする。

 

もちろん、日焼けをしろという話ではない。

 

検索すれば、夜型人間は朝型人間よりも、IQが高くクリエイティブだと主張するサイトがたくさん出てくる。

 

経済成長を牽引したのは夜型人間であり夜型思考だったかもしれないが、それが行き詰まってるとすれば、朝型を見直すことも意味があるだろう。

 

なんだかうまくいかないなと感じ、それが続く時は、夜型か朝型かを再確認したほうが良いだろう。

 

間違いに気付いたら、すぐ改めるべきだ。

思った通りにはならない

ひと昔前、「女性は一人でラーメン店には入れない」と言われていた。

 

それは、本人にとっても、周りで見てる人にとっても違和感を感じさせる行為だと思われていたからだ。

 

違和感の多くは、恥ずかしい行為と双方が感じるような空気感が世間に漂っていたからだ。

 

一人で行動することは、友達や仲間がいないと思われがちなことであるとともに、ラーメンは男の食べ物だと言う空気感があった。

 

このような空気感は、偏った好奇の目線を作り出していた。

 

似たよう好奇の目線は、男性が化粧品コーナーにいるような場合にも向けられていた。

 

しかし今や、男がすることは女もするし、女がすることは男もするようになり、複数人でするものだったことを個人ですることは珍しくなくなった。

 

“個サル”とは?  遼河はるひ、ひとりで楽しむ「ソロ活」に興奮

自由気ままにひとり旅行、ひとりカラオケ、ひとり焼き肉……。「ひとりでいたい」「自分だけの時間や空間を大切にしたい」と、ひとりの時間を楽しむ人がいる。

 

 

このような行動の多様性の許容を促進したのは何だろうか?

 

自由が浸透したからか?

 

不景気になったからか?

 

趣味嗜好が変化したからか?

 

単純に行動パターンが拡大したように見えるこれらの行為は、別のどこかで目に見えないトレードオフを生んだに違いない。

 

拡大する世界がある一方で、縮小する世界も生まれていたはずだ。

 

 

出版業界は"子供はまんが無料"を検討せよ 海賊版への対抗に「遮断」は無理筋

まんが市場は先にも述べたとおり4000億円程度の産業でしかなく、派生先であるアニメ産業も業界外のファンドやテレビ局などのタイアップがなければ生きていけない、いわば副次産業のひとつに過ぎません。

 

膨大なコンテンツ資産がある、といっても、旬の過ぎたまんがは事実上死蔵されているだけです。

 

課題は明らかです。それにもかかわらず、漫画家やアニメーターは使い捨ても同然の就労環境のまま長年放置されているのは、戦略の不在、政策の不備以外の何物でもないでしょう。同じ問題はプログラマー、SEなど、日本の知的財産を担うすべての職種で発生し、「デスマーチ」が横行しています。

 

 

 

 

2つの話題に共通することは、ことばと辞書の関係に似てる気がする。

 

人間がコミュニケーションとして使うことばには、同じことば(単語)でも使われる年代で意味やニュアンスが変化することがある。

 

そんな時、ことば使いが乱れてる、間違ってると言われることが多く、辞書が間違ってる、あるいは辞書が旧いとは言われない。

 

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(42)

たとえば「現代風で魅力がある」ことを示す言葉は「ハイカラ」「ナウい」「いけてる」「クール」など次から次へと生まれる。ということは、古い言葉は次から次へと意味が薄れ、インパクトを失って廃れていくのである。今では、「ナウい」などという言葉はまったくナウくない。

 

 

リアルタイムで少しずつ変化することは、自覚を伴わない事が多い。

 

そんなつもりが無くても競争に巻き込まれてるのが現代の生活だが、競争相手は誰なのか?

 

実は、ひっそりと競争相手が変化しているが、そのことを意識している人達は、まだまだ少数派だ。

 

大企業から“ソーシャル出世”の時代へ。やりたいことができれば利他的になれる

まず個人と仕事の関係性で言えば、最も意識しなくてはならないのが「機械との差別化」でしょう。今までは他の人間と照らし合わせて、「どちらの能力が高いか」と比較されていましたが、これからは「機械とどう違うか」「人類しかできないことは何か」ということを考えざるを得ません。

 

好きなこと、やりたいことをやった結果、起きた波紋を自分で掬いとっていくと、自由になれるんです。ただ、それには責任が伴います。起きたことはすべて自分のせいということですね。

 

 

一方、変化の最前線のように捉えられてる分野は、案外古臭い昭和な薫りを漂わせているのかもしれない。

 

YouTuberを馬鹿にするサラリーマンは絶対に仕事ができないワケ

【人気YouTuberの特徴】

 

1:毎日更新しているが、動画は5~10分程度と長くない

2:(人気YouTuberは特に)顔出しをしている

3:表情力がある(HIKAKINは変顔が得意です)

4:動画のサムネイルに自分の顔が入っている

 

クライアントと話している時に、相手に違和感を与えてしまってはダメなのです。

 

不潔な人は嫌われるというのは当たり前ですが、それ以上に気が散ってしまうからダメなのです。

 

YouTuberにとっての視聴者は、営業マンにとってのクライアントと一緒です。気が散らないように、動画に不必要なものは映さない。かつ自分のことを覚えてもらえるように、毎日配信する。

 

 そんな彼らの振る舞いは、営業職をしていて参考になるところが多いです。

 

 

 

どうやったら自分の持ち味を活かせるかと考える話や意見はたくさん見かけるが、世の中の多数派(私も含まれている可能性は大)は、別の理屈に振り回されているかもしれない。

 

誰もが好きなものを求め、嫌いなものを避けるのが当然だと、頭では思っているかもしれないが、どうやら心の中では、結構めんどくさいことが起きているかもしれない。

 

好きなことを敵に回し、嫌いなことを味方にする、頭の中と違ったことを実生活の場で起こしているかもしれない。

 

 

 

 

 

頭で考える時、自然と2次元の平面の世界で考える。

 

しかし、実際の世の中は3次元で立体的だ。

 

自分が向いている方向の最も遠い場所を思い浮かべると、自分の真後ろになるということがある、想像する最も遠い場所は、実は最も近い場所になることがある。

 

このことに気付かないことが、人生の悲劇や喜劇を生むことがある。 

 

 

 

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類似の考えで、より詳しく表現すると、こういう見方もあるらしい。

 

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最も大事にしなければいけないことを蔑ろにし、どうでも良いことを有難がるという間違いを、人間は犯す生き物だ。

 

ようやくゴールデンウイークが終わるが、悲喜交々の想いが渦巻いているだろう。

 

休みを満喫したはずなのに疲れ果てたり、大事な家族にウンザリしたり、大した予定もなくこれといって何もしてないのに妙にリフレッシュできたり、ゴールデンウイークを迎える前と違った想いを持ってる人も多いだろう。

 

上手く行っても行かなくても、人生は思った通りにはならないものだ。

『炎上』のススメ!

すっかりイノベーションと無縁になった日本では、どの分野も純粋な意味での新しい顧客を見つけることができないので、客の奪い合いに活路を見出さざるを得なくなる。

 

そうすると、"ブランド"があるというか、持ってるというのか、良くも悪くも第一印象を持ってもらえることが有利になる。

 

だから、全くの新規よりもそれなりのネームバリューがあるブランドは強いと思われているが、最近はそうでもないらしいという話が増えている。

 

私には、縁もゆかりも全くないが名前は知っている"サマンサタバサ"が現在苦境にあるらしい。

 

人気ブランドが苦境に 「バッグのサマンサ」経営不振 社長が全スタッフと面談へ

 

このリンク先で見てほしいのは、寄せられたコメント。

 

特に女性から寄せられてる酷評の数々、これしか見なかったら私を含め誰もが「そりゃあ、売れねえわ!」と思うだろうが、SNSの仕掛け人の第一人者であるナカヤマン氏は、こう言っている。

 

 

ツイッターの後半の途切れてる部分は、次のように続いている。

 

その影響で御家芸の「セレブのアンバサダー起用プロモーション」が無効化しているのが原因と個人的には見ています。

 

実際、インフルエンサー時代に合わせて海外のスーパーインフルエンサーを5名起用したサマンサ ミレニアル スターズも、サラ・シュナイダー推しになっている所から当初の戦略からのブレが見られます。影響力ではなく見た目重視で露出が決まっているということでしょうから。

 

 

 

また、ナカヤマン氏は次の記事に対しても異議を唱えている。

 

売り上げに「直結しない」オウンドメディア、それでも取り組むべきワケ

 

 

 ※長瀬さんとは、コメントを寄せてる方

 

 

オウンドメディアが売上に直結しないと言ってる上記の記事の中で、

 

ズバリ「インハウス(内製)化」がポイントだと思っています。というのも、非連続的に生まれる自社の強みを収集し、世の中のニーズとマッチさせることが重要で、それは自社リソースでないと難しいからです。

 

と指摘がある。

 

これは、要になる主義主張に関することも多くの企業が外注で制作していることを示している。

 

この要の主義主張に関わることを受注してるのが、広告代理店であり有名コンサル達なのだ。

 

そんな動きに今変化が生まれていて、広告代理店や有名コンサルに加えてインフルエンサーと言われる人たちが登場し始めている。

 

インフルエンサーの多くは有名人だが、一般人では元は広告代理店や有名コンサルに所属していた人が多いという意味では偏った世界だといえるが、この偏りはリテラシーとして理解する価値があるような気がする。

 

主義主張というのは、少し前まで一方通行で発信されるだけだったが、現在では双方向性が出てきたので予想外のことが起きるようになった。

 

双方向性が出てくると、話題にならなければ反響ゼロと同じになるので、話題になることを目指す。

 

その流れが生んだ一つが"炎上"だが、そんな炎上をコントロールしようという動きも起きている。

 

十把一絡げに語られるネット上の"炎上"だが、3種類あるようだ。

 

 

「炎上狙い」って事が分かってなくて知ったかぶりするみなさんへ  2018/5/2

まず大きく分けると炎上は以下の3つに類別できます。

 

意図せぬ炎上をしてしまったケース

 

狙って炎上させてるケース

 

こいつは炎上狙いだ決めつけ → もの知らない

 

 

炎上というのは実名でやってない人はわかんないと思いますが、実際に炎上すると自分みたいな図太い奴でもイラッとします。

 

 

詳しくは、上記のサイトをじっくり読んでいただくのが良いが、炎上も双方向のコミュニケーションによって成立するということだ。

 

消費を喚起しようとする時、一般的には商品とターゲット顧客という視点で捉えようとするが、炎上を利用する場合は、ターゲットではない層の反発を利用してターゲット層の認知を促進するらしい。

 

上場企業のプロモーション活動が、思い付きやうっかりで展開されることはないだろう。

 

綿密に計算されているだろう、ただ計算ミスはあり得るだろうが。

 

最近炎上したキリンの午後の紅茶のプロモーションでは、メーカーとして謝罪がなされたが、謝罪は一応の成果を確認後に行われる予定調和のセレモニーということらしい。

 

 

 

NHKが炎上の事例を細かく追いかけてまとめたものがある。

 

その中で、炎上の背景を5つ上げている。

 

“ネット炎上“ 追跡500日|NHK NEWS WEB - NHKオンライン

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最近50年の日本は、あらゆる分野で隙間を埋める商品やサービスを展開し、質の向上を目指してきた。

 

一つ隙間を埋め質を向上させると、常に新たな課題が見つかり、その課題を解決するとまた隙間が塞がり、質が向上し、そうすると次の課題が見つかるという事の繰り返しを重ねてきた。

 

そうして、これ以上隙間も求めたり、質の向上を目指すことは、重箱の隅をつつくようなものになった。

 

もはや、隙間を塞いだり、質の向上は、少々メリットがあっても、ユーザーにとっては、コストを掛けるに値しなくなった。

 

要は、少々のメリットがあるという理由では客に相手にされないのだ。

 

隙間や質を求めるのは"理屈や理性"だ。

 

従来の方向性が行き詰まりを見せる場合は、方向性を少しズラすよりも180度変える方が活路が見出せることが多い。

 

従来の方向性である"理屈や理性"の反対とは何だろうか?

 

 

 

検索すると、ズバリは無いが似た意味合いとして、

 

・感性

・感情

・本能

 

そして上記に加えて哲学的なニュアンスを込めて

 

・本性

 

などが見つかる。

 

 

 

 

モノ余り時代の商品企画は「自分がほしい」で勝負する

昔は、世の中に「ないもの」を特定し、問題を解決すれば、モノが売れる時代だった。しかし、今はモノがあふれる時代。

 

 

「企画を立てる際には、まず自分のほしいものに注目しよう。新しいことや変わっていることよりも、自らほしいと思う物事をメモすべき」

 

自分が「ほしい」と思ったものは、自分に嘘さえつかなければ、100%信じられると考えています。というか、それしかよりどころがないと言ったほうが正確でしょうか…。

 

 

 

世の中で起きている多数の炎上劇は、"理屈や理性"の反対を模索する動きに見える。

 

しかし、悲しいことに"理屈や理性"の反対を求めながらも、そこにコンセプトなどと言う"理屈や理性"を当てはめようとしている。

 

人間にとって"理屈や理性"は、完全に拭い去ることができないとすれば、試行錯誤としての炎上はプロセスとして必要なのかもしれない。

 

だとすれば"理屈や理性"をフル活用して良い炎上を目指すしかない。

 

良い炎上とは、狙って起こす炎上になるだろう。

 

 

こうやって考えると炎上はチャレンジであることがよくわかる。

 

 

炎上は、狙うくらいがちょうど良いと言うことだろう。

私は『誰』?

職業は?

 

と聞かれた時に、

 

『職業は人間』と答えたのが岡本太郎。

 

『職業、矢沢永吉』と答えたのが矢沢永吉。

 

 

似た答えをする人は時々いるようだが、大抵この二人のどちらかのモノマネだろう。

 

世の中には、偉くなったり、金持ちになったりとは別の意味で、他人の生き方に大きな影響を与える人というのがいる。

 

そういう人は、多くの場合、偉かったり、金持ちだったりはするが、偉くても金持ちでも人に影響を与えない人がほとんどだろう。

 

聖人君子という言葉がある。

 

Wikipediaでは聖人としている。

 

一般的に、徳が高く、人格高潔で、生き方において他の人物の模範となるような人物のことをさす。

 

使い方としては、「聖人君子じゃあるまいし」と言うように使うことが多い。

 

聖人は、いつから聖人になったのだろうか?

 

宗教の世界では、聖人認定という審査があるらしい。

 

一般に、聖人として認めるための調査は本人の死後に長い時間をかけて行われ、早くても死後数十年、場合によっては死後数百年に及ぶ審査を経てようやく認められる(例:ジャンヌ・ダルクが聖人として認められたのは本人の死から489年後であった)[2]。しかもカトリック教会の場合、列聖の前段階として、福者と認められなければならない(列福されることが必要)。正教会の場合は、さらに急ぐのを避け、その人物に対する世間の反響が冷めるまでに十分な時間を割り当てる場合が多い。

 

"福者"として認められることが、聖人審査の前段階にあるようだが、福者とは?

 

死後その徳と聖性を認められた信者に与えられる称号。この称号を受けることを列福という。その後、さらに列聖調査がおこなわれて聖人に列せられることもある。

 

死後数年にして列福された例もあり、この点は生前の人望や人気に左右される性質のものである。

 

 

人望や人気があるというのは宗教の世界においても重要らしい。

 

人望や人気が無ければ、大勢の人へメッセージは届けられないだろう。

 

こうやって見ていくと、聖人はなるものではなく、作られるものだとわかる。

 

 

聖人認定される人には、自分の意志や努力とも違う、別の大きな力を得る必要があるとわかる。

 

歴史上の聖人が、どこまで聖人だったかは不明だが、現代では徳が高いと言われる宗教家や人の上に立つ役割を担った人物が、結構な俗物であることはよく知られてる。

 

その一方で、名も無き一般人が献身的に行動し、時には命を投げ出すことを厭わず行動することがあることも知っている。

 

生きてると、好むと好まざるとに関わらず、地位や立場を持つようになる。

 

地位や立場は、努力の賜物であり、自ら獲得したものであるという捉え方もできるが、過大評価や分相応の評価や過小評価が織りなす迷走劇の結果として他力本願的に充(あ)てがわれたものとも言える。

 

地位や立場が、獲得したものであろうと、充てがわれたものであろうと、実際に機能する時には、自分自身のキャラクターや価値観もプラスされ、印象(=イメージ)が出来上がる。

 

地位や立場と、自身のキャラクターや価値観が一致することは極めて珍しく、その不一致は演じることで調整されているが、多くの一般人は演じてるという自覚は無いだろう。

 

そういう意味では、全ての人が役者だといえる。

 

地位や立場と、自身のキャラクターや価値観が完全に一致すると、冒頭の岡本太郎や矢沢永吉のようなセリフが言えるようになるのだろう。

 

抑制力が強いと言われる日本人だが、最近は「もう黙ってないぞ!」というmetoo的発言も増えている。

 

これは女性が書いた文だが実にキレがあって面白い。

 

元サイレントブスのJJは「ブスと野獣」「眠れる森のブス」に出演したい アルテイシア

「女は若い方が美しい」というのは、錯覚じゃないか。

特に「女子高生は人生で一番美しい時」というのは、完全に男の妄想だろう。JJ(熟女)たちは「JK時代が人生で一番ブスだった」と振り返る。

 

 

オッサン芸人が「いつまで男にモテたいねん」と美魔女をディスっていたが、彼は美STを読んだことがないのだろう。美STとLEONでは、ベクトルが違う。LEONは「いかに女にモテるか」がテーマの高齢者版ホットドッグプレスだが、美STにモテの二文字はない。

 

美魔女が追及するのはモテじゃなく、あくまで自分の満足感。「見た目が美しい方が自分に自信を持てて、自分が快適に生きられる」という、自分目線を貫いている。そんな彼女らに男目線を押しつけたら「てめえがモテたいからって女もそうだと思うなよ!」とボツリヌス菌を注射されても文句は言えない。

 

 

この文章だけ見ると、女VS男にも見えるが、実際には"気付いてる人"VS"気付かない人"だ。

 

地位や立場と、自身のキャラクターや価値観のズレに気付いてない人は多いが、そのズレは傍から見てるとすぐにバレることが多い、ただ指摘する人がいないだけだ。

 

 

全ての人が役者かもしれないと書いたが、自分がどんな役を演じているかを理解しているだろうか?

 

自分の人生だから、本来役は自由に選んで良いはずなので、そういう意味では答えは「自分がなりたい役を演じている」となるはずだが、どう見ても「その役イヤですよね?」という役を演じてる人がいる。

 

自分で役を選べるということは、脚本を選べるということでもある。

 

もしかしたら、自分で選んだ脚本が読めないのかもしれない。

 

SNS上で起きる日本語のすれ違い:「言葉が通じない」のはどんな人?

例えば、耳新しい単語が出てきた場合、その意味を調べる前に「知らない」という不満を発言者にぶつけたり、文脈を全く無視した見当違いの返信を投げつけたり……。

 

「実は、現状を肯定する言葉より、マイナスを意味する言葉のほうが多いんです。例えば、プラスの気持ちを表す形容詞は〈うれしい〉〈楽しい〉〈面白い〉〈ありがたい〉、くらいなのに比べ、マイナスの気持ちを表す形容詞は〈つらい〉〈悲しい〉〈寂しい〉〈切ない〉〈わびしい〉〈苦しい〉〈憎い〉〈許しがたい〉〈いまいましい〉〈いら立たしい〉〈うらやましい〉〈ねたましい〉〈悔しい〉〈怖い〉〈恐ろしい〉〈恥ずかしい〉…、とバリエーションが圧倒的です。

 

ネガティブな形容詞が多いというのは、人間の習性として、不満がある時こそ口に出してしまう、口に出す必要があるということなんだと思います」

 

 

全ての人が、自分の人生の主役で、どんな脚本を選んでも良いのだが、その演出も自分で行う必要がある。

 

自分で自分を演出するということは、慣れてないと難しいかもしれない。

 

自分の演技に自分で許可を与えることは、なかなかの不自然な行為なのだ。

 

フリーランスの良い点は「許可がいらない」こと、あとはサラリーマンが向いているかいないかが分かる用語チェックリスト

一旦フリーランスになってしまった人がもうサラリーマンに戻りたくない、と思う大きな理由の一つが「何かをやろうと思っても許可がいらない」ということにあります。

 

 

「責任の押し付け合いが嫌い」

 

「プロフェッショナルたるもの、自分で責任を取りたい」

 

「他人に華麗なスルーパスを出し合う様子に嫌悪感を抱く」

 

 

 

こうやって見てくると、自分の演技に自分で許可を与えてもうまくいく条件は、自分らしく振る舞っていても周りから支持される必要があるという意味で人気や人望に左右されることが分かる。

 

人気や人望は、できた(=作られた)イメージの上に成り立つという意味では、自分の手が届かないところにあることになるが、火のない所に煙は立たないと言う意味では、最初に火をおこすのは自分自身でしかないと言える。

 

最初の火おこしを、許可をもらって起こそうとするか、許可は自分で出すかで、その後の演技が大きく変わるだろう。

 

生きるということが、役を演じるということならば、常に問われていることがある。

 

 

私が演じているのはなのか?

 

諸悪の根源は、P(plan)の欠如!

PDCA(plan、do、check、action)で語られるビジネスの世界では、最近四の五の言わずに先ずはDOだと言う考えが広まっているようだ。

 

生まれたばかりの赤ちゃんは、行動の全てが本能に基づいている。

 

この本能的な行動とDOは本質的に全く違う事は誰でも分かるだろう。

 

本能的行動とPDCAの違いは、考えてるか考えてないかの違いでもある。

 

そういう意味では、PDCA的行動は全てP(plan)的だと言える。

 

ある程度以上の年齢になってP(plan)の無い行動は、どのように呼ばれてるかと言うと、“衝動的”、“思いつき”、“無計画”、“何も考えてない”などだ。

 

最初にDOを求めると行動は極めて本能的になる。

 

 

 

一生懸命勉強をして大学受験すると言うのはP(plan)に基づく行動と言えるが、大学入学後の行動にP(plan)はどのくらい反映されてるだろうか?

 

同じことは就活にも言える。

 

就活はP(plan)的だが、入社後の行動はどうだろうか?

 

お金の使い方も同様だ。

 

P(plan)的なのか本能的なのか?

 

借金も返済を考慮できていれば、投資の一種と見做せるが、金利を考慮に入れることが不十分な場合は本能的になってしまう。

 

個人差はあるが、ある程度以上の年齢になると、P(plan)的か本能的かは一事が万事となるだろう。

 

「いつか大勝ちすれば楽になる」はギャンブル依存症の典型例

上手に依存できる趣味や楽しみがある人たちは幸せです。でも、依存症の人たちは依存していくことが下手な人たち。私も発症する前は、バブル世代なので踊りに行ったり、カラオケや温泉に行ったり……意外に裁縫も好きで、いろんな物を作ったりとかしていたのですが、依存症になって濃厚にギャンブルにはまった日から、他のものに依存できなくなってしまったんです。

 

 

依存症の回復プログラムは、孤独感や自尊心の低さ、生きづらさがギャンブル依存症に大いに影響していると考え、日常生活の悩みも他人にすべて打ち明けます。そして、「自分はありのままでいいんだ」「生きていることには意味があるんだ」と、自分で自分を受け入れられるようになることが最終目的です。

 

 

 

 

P(plan)的な生き方でない生き方は、本能的な生き方になる。

 

本能的な生き方は依存的な生き方になる。

 

依存的な生き方になると、自分自身を信じられなくなる。

 

自分自身を信じられないから依存的になるのかもしれない。

 

 

 

ビジネスの世界では、"信用""与信"と言う似てるが違う二つの評価がある。

 

信用とは、約束してる支払いを守ることをどれだけ継続しているかの上に成り立つものである、つまりお金に纏わる過去の行動に対する評価。

 

与信とは、現在の懐状態に対する評価。

 

しかし、世の中には上手くいかないことはたくさんある。

 

上手くいかないことが起こりそうな時、本能的に生きてる人の本能は何故か適切な反応をすることができない。

 

P(plan)的に生きてる人は、上手くいかないことが起こりそうな時、何故か本能が適切な反応をする。

 

 

 

「傷が浅いうちに」 サイバーエージェントが参入断念、仮想通貨交換業の難しさ

 

「リスクがどこまでか見えない。傷が浅いうちというか、ほとんど傷を追っていない状態で撤退するのが賢明だろう」――サイバーエージェントの藤田晋社長は4月26日、同社の決算説明会で、仮想通貨交換業への参入を断念することについて、そう話した。

 

 

 

 

藤田晋社長はP(plan)的な経営者であることがよくわかる。

 

外野から見てると経営者(特に創業者)はバクチを打つように見えるが、人それぞれだ。

 

感覚的に捉えてるつもりの多くの事は、実は理屈で理解し判斷している。

 

アナログ時計では時間がわからない。文字盤の針が読めない生徒が多い為、イギリスの学校がアナログ時計を撤去

英国の校長組合が最近、若者がデジタル時計に慣れすぎてアナログ時計を読めないとして、学校から撤去することを求めたと報告している。

 

 

私はアナログの時代を経てデジタルを受け入れた世代なので、徐々に浸透していく様を直接見ていたので、その変化が与えた影響を時系列でなんとなく覚えている。

 

アナログ時計が当たり前の頃は、身近に時計が無いことは当たり前だった。

 

今でも日本の学校教育ではやってるのだろうが、時計の見方は授業で教わっていた。

 

アナログ時計を読むことは、簡単な事ではなかったのだと再認識できる。

 

アナログ時計で時間の感覚を身に付けた人にとっては、時間は“過ぎて行くもの”だが、デジタル時計ネイティブ世代にとっての時間はどう映るのだろうか?

 

アナログ時計の針の動きを見てると過去、現在、未来が同じ延長線上にあることが直感的に分かるが、デジタル時計を見てると、時間は常に今だけだと感じるし、現在から未来へ一方通行で流れて行くものに思えるかもしれない。

 

デジタル時計しか知らなければ、アナログ時計が読めないと言うことは、“時間”に対する感覚が根本的に違っているということでもあるのだろう。

 

 

デジタルに慣れ親しんでいる子供たちがアナログに対応できないのは時計だけの話ではない。

 

 今年初めにある小児科医は、子供達が携帯電話やタブレットに慣れすぎたために、鉛筆やペンといったアナログの筆記具すらうまく使えなくなっていると報告した。

 

 「鉛筆を握り、それを動かすには、繊細な指の筋肉をしっかりコントロールできねばなりません。そうしたスキルを発達させるには、それなりの機会が必要です」と小児作業療法士のサリー・ペイン氏は話す。

 

 「子供に積み木や切り絵遊びのような筋肉を鍛える遊びをやらせるより、iPadを与えてしまう方が楽です。このために鉛筆を握るために必要な基礎スキルが身に付かなくなっています」

 

 

 

アナログからデジタルへ移行する中で、本能的な反応だと思っている行動の中には、P(plan)が導いたものがあると言うことが見過ごされていることが増えている。

 

「安保は米、経済は日本」戦略か 正恩氏の日朝対話発言

北朝鮮の狙いは、国連制裁を緩和に導いたり、大規模な経済支援を受ける環境を整備したりすることにあるようだ。

 

 朝鮮労働党内部ではすでに、米朝首脳会談後に日朝首脳会談を行う方針が説明されているという。複数の北朝鮮関係筋によれば、北朝鮮内部では「安全保障は米国と、経済は日本と主に協議する」との戦略が検討されているという。

 

 

 

本能的に行動してるようでP(plan)的な北朝鮮に対し、P(plan)的に見える日本は本能的な反応しかできていない。

 

 

今頃になってこう言うこともわかってきた。

 

フェイスブック活用で一枚上手だった-トランプ陣営主張にFBも同意 2018年4月4日

ランプ陣営は、2016年米大統領選挙でのフェイスブック(FB)の広告ツール活用でクリントン陣営より一枚上手だったとたびたび主張してきた。大統領選の数日後に発行されたFBの内部白書は、同社のデータサイエンティストもこれと同意見であることを示している。

 

トランプ陣営が新たな献金者を見つけることを重視したのに対し、クリントン陣営は幅広い支持を確保することに集中したという。

 

 

 

本能的に反応してるようなトランプ氏の方が一枚上手だったと言うことは、それだけクリントン氏よりもよく考えていたと言うことだ。

 

 

 

本能的に行動すると仮に上手くいっても長期的には主導権が取れない。

 

長期間続くかどうかが見所だ。

 

 

諸悪の根源の発端は、P(plan)の欠如に遡ることができる。

 

 

 

PS.

 

上記で語った"信用"は経済用語としてのもので、一般生活の中ではこういうものだ。

 

 

 

第1は 挨拶ができる

第2は 約束を守る

第3は 古いものを大事に使う

第4は 人の話が聴ける

第5は 筋を通す

第6は 他人の身になって考える

第7は 先を読んで行動する

第8は 気持ちや考えを表現できる

第9は 潔さがある

第10は 感謝と畏(おそ)れの感覚がある