相反する考え方のどちらもがそれなりの説得力を持ちながら、同時に存在することがある。
例を上げると、
『友達は大勢いる方が良い』
と
『友達はいなくて良い(一人いれば十分)』
"友達100人できるかな〜♫"と言われながら育つことが多いことを考えると、教科書的な正解は友だちが多いほうが良いとなるのだろうが、実際にはそう思わない人が意外といるからこそ、『友達はいなくて良い(一人いれば十分)』という意見を持つ人が存在する。
アメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)の心理学の研究で、"友達の数が増えれば増えるほど孤独になっていく"、という結果が得られたらしい。
この話は、SNS疲れと呼ばれる現象を説明する際に用いられることが多い。
"友だちが多い方が良い"という考え方の前提には、おそらく"人は1人では生きられない"という考え方があるだろう。
人類の歴史を振り返ると、まさに1人では生きられないことの連続だったのだ。
友達であるということよりも、助け合う必要があったのだ。
助け合うことができたのは、利害の一致のおかげだろう。
利害が一致してるという認識など無いほど、生きることは困難だっただろうから。
そんな時代、敵は大自然や安全を脅かす人だっただろう。
こうやって考えると、友達や仲間というのは、安全を脅かさず共に行動できると言う意味での身内に近い捉え方ができるだろう。
そんな友達という存在に、両極端な解釈が成り立つようになったということは、生きることの困難さの種類が変化したからだろう。
生きることの困難さが変化したということは、"敵"が変わったということだろう。
大自然を敵に回し、大自然を凌駕しようとした人類は、現在それが不可能であることを思い知らされている。
大自然は、敵ではなく共存すべき身内だったと気付いた。
では、現代では何が敵なのだろうか?
こういう場合、宗教の世界では人間が持つ欲や煩悩を敵とみなすが、欲や煩悩を肯定的に捉え考えてみた。
人間は、基本的に競争したがる、俗に言う功名心があるからだろうが、今風に言うなら承認欲求が強いとなるだろう。
大勢の人が、自分なりに承認欲求を満たそうと日々奮闘してるが結果はピンキリだ。
良かれと思って行動することがちっとも結果に結びつかないということが、分野を問わず起きている。
疑うべきは、良かれと思ったそのやり方だろう。
現代のキーワードが"共感"だとよく言われるし、少々陳腐化した印象もあるが、共感はいつの時代でも重要だろう。
大事なことは、共感と反感は紙一重だと言う点だ。
反感は、炎上に繋がる場合もあるが、ほとんどの場合は無視に繋がる。
ある人からは共感を得られた話が、他の人からは反感を買うということは、日常にはよくある。
この現象が、顕著になったのはテレビが普及してからだと言われてる。
ちなみに、テレビで反感を買ったことと同じことをラジオで話した場合、反感を買う割合はぐんと減る。
ラジオでは、話す内容だけが伝わるからだ。
反感を買うとすれば、喋った内容に対する反発以外だと、しゃべり方や声質だろう。
テレビになると、ラジオにプラスしてビジュアル情報が伝わる
つまり、話してる内容が大事なテーマだとしても、内容以外の情報、特にビジュアル要素がそれをジャマするのだ。
情報が多いと、誤解も多くなる。
著名人がスピーチをする場合に、スピーチライターは原稿をチェックするだけでなく、ビジュアルチェックを行い、マイナス要素を排除することに努める、どうでも良いことで足元を掬われることが多いからだ。
このどうでも良いことに起因した誤解から生じたイメージが定着すると、話の内容で勝負できなくなる。
だから保険を掛けるように、共感を集めてるテーマや人に話題が集中し、ビジュアルを似せようとする。
流行して露出が増えると、一発屋芸人化が起き、飽きられるのも早く定番になりきれない。
人もモノも何もかもが、現れては消えるを繰り返すことと、既に存在する定番の使い回しを続けている。
また、インターネットが普及し検索技術が向上したことで、嘘や矛盾はバレやすくなっている。
しかし、真実かどうかはわからないことも多いし、それ以前にどこまで本気でそう考えているかがわからない情報も多い。
敵は、思わぬところにいることを意識する必要がある。
しかし、検索するだけで多くのことが分かるネットの世界も二極分化している。
そもそも検索してる人はごく一部らしい。
2年前にヤフージャパンが調査したビッグデータによると、日本で検索してるのは東京の人だけという結果が出ている。
日本は2つの国からできている!? ~データで見る東京の特異性~ 2016/3/8
このグラフは人口一人あたりの差なので、東京の人口が多いこととは関係ない。
東京に隣接してても差が大きいことを見ると、首都圏という括りも当てはまらない。
かつての情報格差は、発信されてる情報を受け取る術がないことから起きていたし、これが都会と地方の大きな格差を生んでいたが、現在では検索するだけで接することが出来る情報にアクセスする意志の有無という格差が生じているのかもしれない。
今の日本で生きていると、情報格差があると感じてる人は少ないだろうが、思わぬところでどんどん差がついているかもしれない。
"ググれカス"と言う言葉がある。
検索するだけで分かることすら検索しないで、「わからない、知らない」と言う人々を揶揄することばだが、最近は検索しても求めるものが出ないことが増えたと言われる。
この状態を、"ググってもカス"と言うらしい。
なんだか長くなりそうなので、続きは改めて。
今日書いたことは前置きで、書きたいことは、世の中の変化は過去からの連続性があり、繋がっていると感じがちだが、そうではないかもという話。