違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

男と女の思考回路の違い

おもしろいツイートがあった。

 

以下はそれを紹介するだけ。

 

読めば『なるほど』と思えるが、東野圭吾が著書『片想い』の中で表現したように男性性と女性性はメビウスの輪(帯)のようなもので決して裏と表のような関係性ではないと思っているが、それを踏まえても『なるほど』と感じられた。

 

 

 

 

 

 

 

そういえば昔は、普段眼鏡を掛けている女性がコンタクトに変えた途端に周りの男性がざわつき始めるというストーリーは定番だったような気がするが、この展開にときめいていたのは男性よりも女性だったのだなと今更ながら知ることができた。

 

 

これって日本人だからなのかな?

 

 

醜いアヒルの子やシンデレラの話と共通してるようでもあるので、もしかしたら日本人だからというわけではないのかも。

 

 

この違いが、『男は頭で考え女は子宮で考える』と言われることの正体なのかもしれない。

 

 

闘争か逃走か

領土を争っての戦争では、戦うという選択肢以外はすべて諦めに通じる。

 

そのような場合は、中途半端な未来や将来を描いたりせず今現在に注力するしかできない。

 

戦争の場合、戦いの最前線の兵士や現場地域の住民にとっては時間は今現在だけになる。

 

しかし、戦いの最前線から離れてる指揮官には今現在以外の時間軸にも思いを馳せることができる。

 

窮鼠猫を噛む、このような場合のネズミにはおそらく逃げるという選択肢がなく、戦うしかない状態で、かつ今現在という時間しか存在してないはず。

 

ヤラセではない真の格闘技では、リングの上の選手には今現在という時間しか存在してないはずで、試合が終わったら何食べようかなと思ったりはしないしできない。

 

もしできるとすればヤラセの八百長の場合か、試合するのがおかしいほどの体格差や実力差があるような場合だけになる。

 

 

人間が事に臨むに当たって選択肢として闘争と逃走が与えられる場合、闘争を選択する場合は今現在に注力するしかない。

 

それに対して逃走を選択する場合は、未来や将来を意識してることが多い。

 

しかし、皮肉な事に今現在に注力せずに未来や将来を意識してる場合に限って、描いたり望んだ未来や将来は遠ざかることが多い。

 

戦争や格闘技のように真っ向からぶち当たるような戦いがすべてではない。

 

頭脳プレイのような戦いもあり、頭脳を駆使すると『闘わずに勝つ(Fighting without Fighting)』を成立させることもできる。

 

闘わずに勝つことを目指すならば、作戦や戦略が必要になるし、それに基づいた戦術の実行がさらに必要になる。

 

 

そのように考えると逃走も、闘争の作戦や戦略の一つとしての位置付けになる。

 

引き際は事前に想定しておく必要がある。

 

つまり逃走のタイミングやルートも事前に想定して準備しておく必要がある。

 

敵を知り己を知ると百戦危うからず、この諺の意味は情報化時代では深読みが必要になる。

 

知っている内容が嘘やフェイクであることも考慮に入れる必要があるし、己のこともどこまで理解できているかが怪しい。

 

 

いつの時代も、簡単なようでとても難しいのが、敵を知ることであり己を知ることなのだ。

 

 

そもそも敵とは?、これが定義できてないことも少なくない。

ヒントは180度反対側にある

テクノロジーが進化を目指すのは必然。

 

進化したテクノロジーを使いこなしたいと望むのもまた必然。

 

そしてテクノロジーの進化は生活を変える。

 

一般的には、テクノロジーの進化の先にはより便利や豊かや快適があると考えられている。

 

だから、テクノロジーの進化は一方通行で逆行しないと言われる。

 

しかし厄介なのは、そんなテクノロジーの進化の先には、あると思われてるはずのより楽しい、より気持ちいい、より嬉しいがあるとは限らないこと。

 

 

このようなギャップに気付いた人たちは、一見テクノロジーの進化と逆行した方向に価値を見出すように見えることが少なくない。

 

今よりもより楽しい、より気持ちいい、より嬉しいという体験や記憶を再現したいと望んでの試行錯誤の結果だ。

 

デジタル時代なのに、アナログ復権の動きがあるのもそのためだ。

 

決して遅れていたり取り残されてというわけではなく、進化のプロセス途上における正常進化としてだ。

 

ハイスペックを追い求め、それを使いこなそうとすると、難解で複雑な技やテクニックを競い合うかのような方向に自然と向かいがちになる。

 

 

メジャーな方向性が世間に出来上がると、自然発生的に反対ベクトルの価値観も生まれる。

 

この動きは、対立関係というよりもむしろ相互補完の一体性が感じられる。

 

難解で複雑な方向に対処するためには、分かりやすいシンプルさも必要になる、しかし分かりやすいシンプルさはなぜか蔑ろにされがち。

 

 

 

世の中が難解で複雑なものに思えたり、未来が混沌として見えるのは、シンプルで分かりやすい大事な何かが見えてないからかもしれない。

 

 

壁に直面した場合の、壁を打ち破るヒントは180度反対側にあることは多い。

 

 

当然ながらこの180度反対側というのは、行ったり来たりを繰り返す。

広告宣伝費は保険料!

なるほどと頷けるツイートがあった。

 

 

ちなみに、知床遊覧船の件でビッグモーターの名前が出たのは次のツイートがきっかけ。

 

 

 

今のようにSNSが発達し個人が情報発信できるようになる以前は、情報発信はマスコミしか出来なかった。

 

マスコミは、発信するコンテンツが商品だと思われがちだが、コンテンツそのものを作ることは実際には儲けというよりもむしろコストであることがほとんどで、儲けの要は広告宣伝費。

 

その広告宣伝費を負担する企業の目的は、商品やサービスの告知であり企業としての知名度アップであったり、場合によっては節税などと世間では思われがちだ。

 

しかし、真の目的は不祥事や不都合が起きた際に、報道に手心を加えてもらうための保険として機能していて、広告宣伝費は実質的には保険料になってると考えるとしっくりくる。

 

そういう目で過去の不祥事を振り返って見ると、同様のことをしたのに報道の扱いが違うという場合があったなと思い出す。

 

そういう時の違いは、経営者の謝罪の仕方の是非として扱われることが多いが、支払っている広告宣伝費の推移とリンクしていたのではないかと想像できるし、厳しく報道するメディアとそうでもないメディアに分かれる場合が少なくないのは、広告宣伝費の配分に不満なメディアほど攻撃的な報道をしてたし、今でもしてるのだろうと考えると納得しやすい。

 

 

テレビやメディアで広告宣伝費をたくさん払ってそうな企業は、少し胡散臭い目で見るくらいでちょうど良いかもしれない。

 

まだ発覚してないだけで、とんでもない爆弾を抱えているかもしれない。

 

 

知床でも感じる『またもやコンサルか!』

ウクライナでの悲惨かつ残忍さ以上に日本人を不快にさせているのが知床での観光船沈没事故。

 

まだテレビ等のニュースや報道では憶測の域を出ないからだろうが、悪の張本人は観光船会社の社長になってるが、多くの人がご存知のように(知らない方は検索すれば多数出ます)、社長が心酔していたコンサルがいたことが話題になっている。

 

 

関係者には共犯意識という自覚があるようで、あまりにも分かりやすい香ばしい行動を取っていることが伺える。

 

 

また別件だが、この社長が経営する旅館宿泊業に絡んでも過去にとんでもないことが起きていたと伝えられている。

 

 

 

 

これまで大きな話題にならなかったのが不思議なくらいだが、逆に考えると今回の沈没事故はたまたま起きたことではないことが想像できる。

 

社長一人の人間性に起因したというよりも、コンサルと一体化した合わせ技で起きているのだ。

 

コンサルとは、成功すればコンサルの実績となり、失敗するとコンサルの失敗ではなくコンサルに従った会社の失敗となる。

 

つまりコンサルは無責任体質の上に成り立つのだ。

 

多くのケースで、コンサルが推進しようとすることは現場の人からは嫌がられる、厳しいからではなく、頓珍漢な的外れだからだ。

 

しかしその方針は、現場を知らない、知ろうともしない会社経営者には耳心地が良いのか魅了されることが多いようだ。

 

いつの頃からか、何事も自己責任と言われるようになったが、これはコンサルの誰かが裏で糸を引いて免罪符として意識を植え付けたと考えると妙にしっくりくる。

 

自己責任を押し付けられるのは、常に弱者や末端だし、大企業と戦う中小企業であり、中央に対する地方だったり、官に対する民だったりだ。

 

ところで、今回の件に関しては親が親なら子も子という話も聞こえてくる。

 

 

 

親が親なら子も子が成り立つ場合、親の存在はまさにコンサルそのものだろう。

 

 

知床での沈没事故は、二人のコンサルに洗脳された愚かな経営者が導いた、起きるべくして起きた事故だと思えてくる。

 

 

 

アップデートが必要なものは永遠に未完成

考えさせられる記事があった。

 

Appleが長期間アップデートされていないアプリをストアから削除する動き

上記の警告を受けた『Motivoto』というゲームはすでに完成しており、そのため2019年3月を最後にアップデートは行われていなかった。しかしAppleからはProtopop Gamesに対して、「30日以内にアップデートが行われない場合、このアプリはストアから削除されます」との通知がなされたのだという。

 

 

Appleのこの動きに対しては、今のところアプリ開発者からは非難の声は上がっていてもユーザーレベルではこれからなのだろう。

 

 

ここで問題になるのは、『完成』であり『アップデート』だ。

 

Appleの判断を受け容れるならば、アップデートとは、永遠の未完成に対するフォローということになる。

 

アップデートの繰り返しを余儀なくされてるものには完全なる完成は見果てぬ夢のようなものになる。

 

AppStore上のアプリにとって完全なる完成とは、概念上の存在であり現実には存在しないということになる。

 

 

この理屈を人に当てはめると賛否両論巻き起こるはず。

 

引退、リタイヤ、隠居、Fire、余生、さまざまな表現がなされる生き方の多様性が排除されることが連想されてしまう。

 

もちろんこのような生き方をすることがアップデートと無縁とは言えないが、ここで肝心なのはアップデートが必要かどうか、実際にアップデートしてるかどうかは本人の判断ではなく、審判役がするということだ。

 

審判が判断するというとこの話が新しい。

 

 

 

この件では、世論は審判に対して逆風だったが、

 

 

 

 

登録抹消が佐々木選手の非を認めるものではないのだが、そう見えてしまうのが痛々しい。

 

さて、この件ではアップデートすべきは一体誰なのかを考えたくなる。

 

審判なのか、佐々木選手を含めた選手側なのか、プロ野球界なのか、報道する側の意識なのか、はたまた観客や世間なのか?

 

 

世界中で混沌とした出来事が絶えないが、そういう現場ではいつも独り善がりなアップデートがチラつく。

 

人間の歴史はアップデートの歴史で、永遠に完成することはなさそうだ。

 

第三の居場所

昨日次の話を聞いて今日になって思った話。

 

 

 

昨日の時点では『自分とは違うな』だった。

 

しかし、1日経って違う考えも芽生えた。

 

 

 

 

自宅や職場や学校など一般的に多くの時間を過ごす場所以外の場所を、第三の場所(サードプレイス)と呼ぶ。

 

第三の場所は、人の数だけある。

 

単なる通過地点や、ちょっと立ち寄っただけの場所から、お気に入りの場所や秘密の場所など、定義も人の数だけある。

 

時間や空間を共有する人が他にいるからといって、想いも共有してるとは限らない、いやむしろ共有できることは少ないはずだ。

 

第三の場所だからといって過ごす時間が短いとは限らない。

 

 

引用したツイートの記事を読み、第三の場所には場所というよりも空間と呼んだ方が相応しいものも含まれると感じられた。

 

 

スマホやタブレットやPCなどの中の世界も第三の場所になっているとすれば、通信が可能な場所ならばどこでも第三の場所になり得るだろうし、自分の世界に没入したいならば通信は絶対的な条件ですらないだろう。

 

第三の場所が居場所として機能するためには、そこで過ごす時間がお気に入りであることが大事になる。

 

良い悪い、正しい間違ってるなどの他人目線の価値判断とは馴染まないはず。

 

だから、居場所として機能する第三の場所には、その人独自のマナーや作法や理由が存在するのだ。

 

『自分とは違う』なんて大きなお世話なのだ、きっと。

 

他の誰とも違っていて構わないのだ、迷惑を掛けたり犯罪でさえなければ。