”つながりたい”というキーワードが連想させるのはSNSだ。
LINEに代表されるSNS上のマナーによる束縛関係を ”つながりたい”と表現するケースが多いように感じる。
これは、現代版村八分を避けるための自衛に見えてしまう。
このようになるのは、日本人のメンタリティも関係してる。
つまり、関わってる人間同士がおかしな束縛関係なのだ。
少し前によく使われたリア充という考え方も影響してる気がする。
リア充を装うために、つながっている関係を求めるのだ。
この”つながり ”が意味するのは、同質化の確認だ。
今日語りたいのは、このつながるではない。
むしろ、正反対を意味するかもしれない。
フィルターバブルという言葉が一般的になったのはインターネットが普及しきった後、最近になってからだろう。
検索で用いるキーワードや実際によくアクセスするサイトがどこなのか等の情報から、自分という人間がパーソナライズされている。
自分の知らないところでAI(人工知能)に、趣味嗜好に合わせた選択をあてがわれてしまっているのだ。
この現象は、最初は「おっ分かってるな!」感があり、心地良かった。
やがて、「これで良いのかな?」と感じることが増えてくる。
多い選択肢から、ベストなものを選びたいのに、最初から選択肢が絞り込まれてる感が出てきて ”井の中の蛙大海を知らず ”になってるんじゃないかなと言う思いが拭えなくなる気がしてくる。
そこで、自分とは違う目線を設ける必要を感じることが増えてきた。
要は、他人の事というか一般的にはどうなんだと言うことも気にする必要があるなと気付き出す。
こういう見方をすると、自分の偏り具合もなんとなく見えてくる。
軌道修正が必要なときにやりやすい。
自分で考えたり、身近な人と話して判断することが、世間の中で、どこに位置してるかを知るために、確認するためにネットでつながっていたい。
ネット経由で、利害関係がない人の意見や価値観とつながることで気づくことや発見が得られる。
現代版、三人寄れば文殊の知恵だ。
つながりたいにもいろいろある。