日本人の場合、今生きてる人はほぼすべての人が、昨日より今日のほうが得てる情報が多いという環境で生きてるだろう。
昨日と今日の比較では大した違いがなくても、10年前と今では大きく違う。
インターネットが、情報の入手先として信頼性も伴うようになったのは10年前くらいからだと思う。
普及の初期段階では、圧倒的にコンテンツ不足なのと、回線が従量課金だったので、接続する時間を極力少なくしていた。
最初の契約は1月に90分位しか接続できなかった気がする。
90分を超えると、1分あたりいくらという割増料金が発生していたのだ。
ADSL回線の普及で、常時接続が可能になったが、最初にこの話を聞いた時は詐欺だと思った。
親しい知人が常時接続で平気な顔をしてるのを見て、本当のことだと思えたことを覚えている。
常時接続が当たり前になって急速に情報の入手先としての利用が進んだが、ネット上を行き交う情報は、信頼性という点ではピンキリでもあった。
今で言うところのリテラシーという概念すら無かったからだ。
インターネットが画期的だったのは、普通の個人の意見や価値観が表に出てきた事だ。
以前は、テレビや新聞や雑誌などで有識者と称される人々の意見や考えに接する事で、自分の考えを決めたりしていた。
自分の意見が無いから影響を受けたというよりも、そもそも意見が持てるほど状況を知らないからだ。
情報の入手先として今でもテレビは一番だ。今となってはオールドメディア感があるが、テレビは映像の持つ”百聞は一見にしかず ”という強みを最大限活かしてる。
スマホやデジカメや監視カメラの普及で映像情報の総量はとんでもない量になっている。
ニュース性はあっても映像や画像がなければ、ニュースとして取り上げられないかもしれない。
画質の違いも大きな要素になるだろう。
同じような日常生活を送っていても、昭和と今とでは映像の記録量が違いすぎる。
つまり、今だったら簡単に気付くこと、わかることが、昭和だと見えないから気付かない、あったことすら知らないということが多かっただろう。
これらの結果が、実際とは違った印象を与えることに繋がるだろう。
知らない人には気をつけようでも書いたように、今はプライバシーの尊重が徹底してる事で顕在化しにくいことが増えてる反面、映像で補足されてるデータの量は莫大なので、第三者が起こす様々な行動が見えてくる。
昭和の頃はプライバシー意識が低いので、身近な人のことはよく見えたと思う、直接見たことは特ダネとなっただろうが内輪受けに留まっただろう。
そしてネタの当事者の多くは、沈黙していた。
人の噂も七十五日。
噂が消えるまで沈黙するので、情報が拡散する要素が少なかった。
広く世間に知れ渡るのは大事件だけだった。
やがて、直接見聞きしたこと以外は忘れてしまい、昭和は問題が少ない時代という印象だけが残ったのではないだろうか。
暗闇には泥棒がいる、と子供心に思っていたことを思い出した。
今よりずっと夜が怖かった気がする。