『創業から10年、国内最大のYouTuber事務所が危機にさらされている。』という内容の記事を見て思った話だがYouTubeを論じたいわけではない。
記事よりもコメントの方がおもしろいというのは遠慮なく思ったことを書けるからだろう。
内容が誹謗中傷になるとうんざりだが、批判や批評は遠慮の上に成り立つと論点が曖昧になるものだ。
YouTube専業のクリエイターが苦境だという話はもはや聞き飽きるくらいで、その理由も何を聞いてもそうだろうなとしか思わない。
急速に人気に火がついたものは廃れるのも速いが、それだけではないとするならその理由も知りたいとはよく思う。
デジタル情報の時代になって、流通する情報のデータ量やコンテンツの総数は年々増加してる、デジタル情報には流通を目的としないものもあるのでデータの総量は想像できないほど大きいはず。
余談だが、ネット上に流通してるデータやコンテンツの量や数をChatGPTに質問したが、『分からない』という答えだった。
スマホが普及する前段階では、情報はブラウザで検索されるか、配信サイトを通じて流通することがほとんどだった。
紙媒体のアナログ情報は有料であっても、同じ内容を伝えるネット上のデジタル情報はほぼ無料となった。
無料は無秩序に繋がりやすいという欠点も持つが、無色透明な一次情報よりも、一次情報をベースにして意味や解釈を加えた二次情報の方が人の興味を惹くのもまた間違いのない事実だった。
ブラウザと向かい合って検索することは、目の前に見渡す限りの大海原が広がるような無限感があった。
これを変えたのが、スマホの普及に伴うアプリの普及だ。
今となっては、アプリの総数も計測不能な位多いはずだが、そのことでブラウザ検索に感じた無限感が、アプリの数だけ分断されることに繋がったような気がする。
やってることは似ててもあるいは同じでも、見渡せば端が感じられる世界と向き合うようになることが増えた。
日本に住んで日本語で情報を発信すれば、たとえそれが個人のブログであっても、ブラウザ検索しかなかった頃だと、ネットの向こう側には一億人がいると思えていたが、今は一体何人なのだろうか?
YouTubeの話に戻ると、YouTubeの役割はYouTubeにアクセスして見たい動画を探すという存在から、コストを掛けずに動画を保管するための場所になってるのかもしれない。
銀行預金が昔は利息収入を目的にしてたのに対し、現在では利息収入はほぼゼロだが、安心して使える金庫の役目は揺らいでいない、それと同じことがネット上でも起きているのだ。
昔は銀行強盗があったが、最近はほとんど聞かない、そのかわりに預金を引き出した人が銀行の外で襲われたり、キャッシュカードを奪われたりという話はある、これがデジタルにおけるアカウントの乗っ取りなどに相当するのかもしれない。
安心や安全は全方位には確保されず、必ず盲点や弱点が生じる。
今や安心や安全がしっかり担保されてるところでは下剋上やテロは起きないし起こせない。
何でもいいから爪痕を残したいと思うなら、盲点や弱点を狙うしかない。
狙うためには、盲点や弱点がどこにあるかを知らなければいけない。
これはきっと地道な作業の連続のはずだ。
ChatGPTに聞いても『分からない』と答えるだろう。