日本人には、完璧主義が多いと言われる。
古くを遡ると、”いいかげん=良い加減 ”という文化も持ち合わせてるのに。
”完璧にできるということを目指す ”を要求されたり、自らに課すことが多くなると、恐れるのは、失敗することや批判を受けることになる。
なぜこういう流れが出来上がったのかを考えていて思い当たったことがある。
お手本という正解を最初に与えることがスタートの習い事が多いのだ。
周囲を気にせず「真実」を見抜く方法〜「正解主義」の呪縛を解け!
そろばんが正解を目指すのは当然としても、感性を表現するものにもお手本と言う正解が最初に与えられ、お手本と違うと訂正させられる。
一所懸命やる人、出来のいい人ほど、自分流を矯正される。
色んな分野で、評価される人の傾向が同じになる。
江戸時代の文化にこういう傾向はない気がする。
明治にも無さそうな気がする。
ではいつからだろう?
いつにしても、歴史的に見ると最近のことになるのでは。
日本人のメンタリティの特徴の1つに同質化を好むというのがある。
この同質化が、正解主義につながっているかも。
そして、この流れを加速させたのはメディアの発達であり、通信の発達だろう。
メンタリティ的には、同質化の正解主義指向だとしても、コミュニケーションの中心が口コミならば多様性があっただろう。
出身地が違うと、持ってる常識が違うなんて昔は多かったはず。
おそらく1980年台に入った頃を境にして、情報や基準が東京発になった気がする。
絶対交わらない感があった東京文化と関西文化だが、
当初、東京に攻め込んだかに見えたが、実際は関西弁を使うことを免罪符にし、東京に日和ったということだろう。
大阪に本社を置いていた企業が、ぞくぞく本社を東京へ移転した。
今、日本が世界の中で存在感を示せない理由の1つがここにあると思う。
関西が東京の対立軸として独立感を示せてれば、もっと違う日本が存在した気がする。
関西弁の持つラテンなノリは、自由な発想と多様性の肯定を感じさせるのに、その魂を捨てたようにみえる。
関西には、人の数だけ正解があることを許容する文化があった気がする。
今耳にする関西弁がイメージさせるのは、クレームやイチャモンだけだ。
関西発のワクワクするような話題が無い。
かってな推測だが、オレオレ詐欺に代表される詐欺は、東京に日和った関西魂
が起こした事件のような気がしてる。
橋本さんが大阪市長になった頃が、関西復活のチャンスだったと思うが・・・。
関西出身者が総理大臣になって、記者会見も答弁も関西弁を話すようになれば日本の存在感も上がるような気がする。