今までに経験したことがない「好ましい状態」を経験すると「良い」と感じる。
商品やサービスだけでなく人間関係も該当するだろう。
これ以外でも、良さを実感するような経験をすることがある。
良さを再確認、あるいは改めて気付くと言っても良いかもしれないようなことがある。
良かったと改めて気付くのは、悪い状態を経験した時。
悪い状態は、我慢しても慣れない。
そういう時に、「嗚呼、あれは良い状態だったんだ」と気付く。
人間関係も同様だろう。
損得勘定での付き合いを止めると、精神的に安定するという経験をした人は多いだろう。
逆に付き合いを止めて、心にポッカリ穴が開く感じを味わったことがある人も多いだろう。
良い状態は、すぐに慣れて当たり前になり、ありがたみを感じなくなる。
もっと良いものがあるんじゃないか?
もっと良くなるんじゃないか?
もっと良く出来るんじゃないか?
良い状態は基準として機能しだし、「もっともっと」を加速させる。
この「もっともっと」は、「上昇志向」と言われることもあれば、「足るを知らない」と言われることもある。
良い状態は、原点であり、故郷みたいなものになる。
この「良い」「悪い」を何に感じるかは個人差があるとともに、時代を反映していると思う。
良いと感じることとして、
- 快適(気持ちいい)
- 便利
- 望んだ結果が得られる
- 思い通りになる(機械の操作、人間への指示命令、etc)
- 変化を感じ取れる(違いに納得できる)
などが浮かぶ。
1929年、世界恐慌が始まる2ヶ月前に恐慌の発生を予見しながら亡くなったヴェブレンは、
「人間はほかの人との相対的比較において、
自分が上回っていると幸福だと思う動物で、
絶対的レベルで幸せだとは思わない。
だからもっと豊かに、とばかり考えていると、
バブルになり、それがはじけて大変なことが起こる」
と言い、そしてそれが当たった。
経済学の父と言われ「国富論」の著者であるアダム・スミスは、経済学に進む前は倫理学を行い「道徳実践論」という本を書いているが、その中で、
「人間には弱い人と賢い人がいる」。
「弱い人」というのは、お金持ちになればなるほど、
幸せになれると思っている人。
「賢い人」は、あるところまで行くと、
これ以上お金持ちになっても同じだ、
別の価値に自分の生きがいを見いだしたほうがいいと
いうことが分かっている人です。
と書いている。
ヴェブレンやアダム・スミスのことばから考えると、賢く幸せになりたいならば、自分の幸福観を絶対的レベルで定義できる必要がありそうだ。
こんな話がある。
子どもに芸術はわかるのか
二十一世紀国際地方都市美術文化創造育成活性化研究会
――それなら、子どもは芸術がわかっているのですか?
子どもは芸術しかわかりません。
――えっ、どういうことですか?
子どもは美術作品を見て、そこに込められた芸術性のみキャッチします。ピカソの絵を見て、芸術性だけを読み取って、それ以外は読み取れません。
――子どもには芸術はわからないとする前提を放置すると、何か害はあるのですか?
「子どもが届かず大人が届く領域に芸術性が宿る」という前提に、作る側も見る側も束縛を受けます。「子どもが反応する美術は芸術に値しない」となるわけで、これが芸術の定義に影を落とすのです。画家は「子どもなんかにわかられてたまるか」と、作品全体の味をどんどん薄めて、地味でおもしろみのない方向へ行くわけです。微細な部分に手指の器用さをとことん発揮したりして。大彫りで派手でおもしろみがある作品は、お子様向けだと批判されかねないから、作る側も見る側も知らぬ間に小味の部分に集まってきます。
こんなことを書いてみようと思ったのは、下記を見たから。
伝えたいと思っていることが、伝わったと実感できたのだろう。
価値を提供するだけの立場だと思っていたのに、思いがけない喜びを逆に貰えたことに対する素直な感動だったのだろう。
そして、そんな自分への戸惑いもあったかもしれない。
しかし、この美大生は全部引っくるめて幸せだっただろう。