一生懸命に探しているのに見つからないものがある。
本当は目の前にあるのにそのことに気付いてなければ、探しても探しても見つからないものになる。
私がたまにやってしまうのがメガネだ。
メガネを探しているのに見つからなくて、「困ったな〜、メガネがないと何も見えなくて大変だ」と思った時に、「なんで見えるんだろう?」と気付き、「あ、メガネかけてたんだ」と気付くことがある。
チャンスやお宝を求めているのに見つからない時に感じやすい気持ちであるとともに、事件や事故に巻き込まれる場合にも当てはまる。
危険を察知し逃げたいのだが、逃げ方や逃げる方法が見つからない場合がある。
逃げる間すら無い場合もあるだろう、地震や津波の場合だと。
探し物の場合、そこにあると分かっていればそんな行動は取らないのに、トンチンカンな行動をするのは、よく分かっていないから。
眼鏡や鍵の置き場所が分からなくなるのは、深く考えずに無造作な扱い方をしてるからだろう。
それに対して危険から逃れるような場合は、その危険が迫ってくる速さに反応し、迫ってくる反対方向に本能的に逃げようとするだろう。
地震のように迫るスピードが速いと実際には何もできないことが多いのは、迫る速度が速いというよりも気付くタイミングが遅すぎるからで現実的には不意打ちなのだ。
それに対して、大雨による水害はもう少し緩やかな時間経過の中でヒタヒタと迫ってくる危険だと言えるだろう。
人間の危険回避行動は本能に近いレベルで反応を余儀なくされるような場合を除けば、知ってるか知らないか、分かってるか分かってないかの差が大きく出る。
人間とは、知らないことは想像できないし考えることができない生き物。
この数年夏になると大雨による水害が各地で起きている。
大雨が怖いことは共通認識としてあっても、その結果として取る行動にはかなり差があるのは、初めて経験する人が多いからだ。
最近の水害を見てると、命の大切さは勿論のことだが、家という存在の重要さをすごく感じさせられる。
家がダメになっても命が助かれば良いなどとはとても思えないことが多い。
雨の降り方自体が昔と大きく違っているが、昔だったら家を建てない場所に家を建てているのかもしれない。
その理由は、知らないからなのか、それとも忘れてしまったからなのか?
現代は知識は増えているはずなのに、それに反比例するかのように、知らないことが増えている。