カメラを持て、町へ出よう ──「観察映画」論 (知のトレッキング叢書)
- 作者: 想田和弘
- 出版社/メーカー: 集英社インターナショナル
- 発売日: 2015/07/24
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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何気なく読み始めた本だったが、なかなかおもしろかった。
読み終わった後、著者の想田和弘について調べたりtwitterを見たりすると若干政治的な発言もある人で、ノイジーマイノリティな連中に絡まれてるのが見えてくる。
想田和弘氏は映画監督で、マイナーな存在であるが一部で注目を浴びている。
単純な書評ではなく、想田監督の価値観や生き様や世間の動きを考えることで、なんとなく感じているが、深く考えてないことが、周りには多くあるということや、あまりにも当たり前過ぎてかえって存在を意識しないことがあるんだということ、そしてそんな見え方の違いはテクニカルな処理の差で起きているかもしれないということを書いてみたい。
この本の内容は、想田監督が講師を務めた映画美学校での講座の内容を基にしていて、受講生との質疑応答をを交えながら展開されている。
想田監督は、自らの映画を「観察映画」と命名している。
この観察映画には10の約束事があり、監督はそれを「観察映画の十戒」と呼んでいる。
この十戒を解説し、受講生との質疑応答を重ねたのが本書の内容だ。
(1)被写体や題材に関するリサーチは行わない。
(2)被写体との撮影内容に関する打ち合わせは、(待ち合わせの時間と場所など以外は)原則行わない。
(3)台本は書かない。作品のテーマや落とし所も、撮影前やその最中に設定しない。行き当たりばったりでカメラを回し、予定調和を求めない。
(4)機動性を高め臨機応変に状況に即応するため、カメラは原則僕が一人で回し、録音も自分で行う。
(5)必要ないかも?と思っても、カメラはなるべく長時間、あらゆる場面で回す。
(6)撮影は、「広く浅く」ではなく、「狭く深く」を心がける。「多角的な取材をしている」という幻想を演出するだけのアリバイ的な取材は慎む。
(7)編集作業でも、予めテーマを設定しない。とにかく撮れた映像素材を何度も観察しながら、自分にとって興味深い場面をピックアップし、場面ごとにシーンとして構築してみる。シーンがだいたい出揃ったら、それらをパズルのごとく順番を並べ替えたり、足りたり引いたりして、徐々に一本の作品としての血を通わせて行く。その過程で、一見無関係なシーンとシーンの間に有機的な関係を見出したりして、徐々に自分の視点やテーマを発見して行く。発見したら、それが鮮明になるように、更に編集の精度を上げて行く。同時に、映画として見応えがあるように、編集のリズムやドラマティックな構成を整えて行く。
(8)ナレーション、説明テロップ、音楽を原則として使わない。それらの装置は、観客による能動的な観察の邪魔をしかねない。また、映像に対する解釈の幅を狭め、一義的で平坦にしてしまう嫌いがある。
(9)観客が十分に映像や音を観察できるよう、カットは長めに編集し、余白を残す。その場に居合わせたかのような臨場感や、時間の流れを大切にする。
(10)制作費は基本的に自社で出す。カネを出したら口も出したくなるのが人情だから、ヒモ付きの投資は一切受けない。作品の内容に干渉を受けない助成金を受けるのはアリ。
この十戒は、個人的にとても内容に共感を覚える。
ブログを始めるにあたり自分自身をどう定義するか色々考えた。
その結果下記の前提でブログを書くことにした。
- 自分自身が興味や関心があるネタを扱う(意見や考えを表現する)
- ネタや情報は、検索すれば出てくるものを活用する
- 一見無関係に見える他の件と関連付けることができないかと考える
最近の世間の風潮として、取材に基づかない情報は価値が低いと判断する傾向にあるようだが、個人的には取材に基づく特ダネやスクープのようなものと同じくらい、ありふれたものに潜んでる新たな気付きがおもしろいのではと感じている。
これは大人になると薄れてしまう子供目線と言えるかもしれない。
受講者からの「被写体がカメラを向けられることで、自分を演じるのでは?」と質問された事に対し「観察映画の観察は参与観察」であり、撮影者(監督自身)を含んでいる、だから撮影者が映ってもそのことが被写体に影響を与えてもかまわない、という理屈を当てはめていると答えてる。
観察という行為は、無意識の行為ではないから非日常性がある。
日常が無意識で予定調和的な傾向にあるのに対し、観察はあえて行う意識的な行動だ。
で、よく観て、よく聴くとですね、通り過ぎていた、当たり前だと思っていたことが、当たり前じゃなくなってくるんですよ。
なんか急に、全然違うものに見えてくる。
それが「発見」なわけですよね。
今までは自動的に処理してたようなこと、右から左へ処理してたようなことを、今までのように処理しないわけです。
それが「観察」の効果なんですね。
観察の力は撮影よりも編集で発揮されるかもしれない。
撮れた映像を何度も観て、映像を切ったり貼ったりしながら、撮影時には気付かなかった発見をしていくわけですね。
「ああ、なるほどあの時はこうなっていたのか」と気付く編集は正しい編集を意味します。
でも、たいていのテレビの現場やドキュメンタリーの教科書には、「編集する前にテーマを考えろ」と。
たいていのプロデューサー、編集作業の前に聞いてきます。
「この番組のテーマは何だ?」
そして僕は心のなかでこう答える。
「知らねえよ」
被写体を観察することに慣れてくると、やがて自分自身を観察するようになるらしい。
これは、なんとなく同意できる。
怒りや不安や怖れなどのネガティブ感情が、自分を観察することでスーッと消えたりするらしい。
「目の前の現実を観察しよう」とすると、意識は「今」に下りるしか無いんです。
なぜなら「観察できるもの」って「今ここ」にしかないから。
最近はやってる瞑想では、心を無にすることを目指すようだが、実はリラックスしながら自分自身を観察する行為かもしれない。
「観察瞑想」のすすめ:
混迷する世界から自分を守り、世界を変える。
やってみて驚かされたのは、自分の頭の中がいかに雑念だらけか、ということである。いくら呼吸に意識を集中させようとしても、すぐに雑念が湧いて、気づいたら別のことを考えていたりする。
観察瞑想で訓練する心のあり方。それは、「今ここ」で起きている「ありのまま」に集中し、良いとか悪いとか、正しいとか間違っているとか判断することなく、ただただ「気づく」ことである(そういう心のあり方を「マインドフルネス」と言う)。
この本は、映画について書かれた本である。
映画ビジネスについては書かれてるが、ビジネス全般を語ってはいない。
しかし、これからのビジネスに必要なことが散りばめられてるように感じた。
素材は大事だが、活かすも殺すも編集次第。
出来上がったものが、「観よう」という能動的な行動を喚起できるかが問われる。
下線を引いた箇所は、いろいろな分野のビジネスに当てはまることばに置き換えることができるだろう。
やっぱり、これからの時代は遊びもビジネスも同じものになりそうだ。