豪雨被害を伝える映像を見ていると、映像の鮮明さや昔より大画面で見てるせいもあり、年々被害の規模が大きくなるような気がしてくる。
そんなことを思いながら思った話。
画家と写真家の会話にこんなものがある。
画家:
『写真は正確に被写体を一瞬で撮れるから良いな』
それに対して、
写真家:
『絵は自由に好きなように描けて良いな』
これは、画家は正確さみたいな尺度にコンプレックスがあることを示しているし、写真家は撮影に当たって物理的な制約を常に受けていることを示している。
また、絵は好きに自由に描けるが描き上がるまでにはかなり時間がかかる、一方写真はシャッターを押せば一瞬で撮影できるが、実際には被写体を探し、被写体が見つかればそれをどのように写すかには神経を使い始めたらキリがない。
どちらが上だ下だという話ではない。
同じことは実写の映画やドラマとアニメにも当てはまる。
そして、実写とアニメの中間に今ではCGやVRなどが誕生してるが、これらは中間ですらなく別ジャンルに感じられる。
動画は静止画の集合体という意味では、静止画としての絵や写真が原点なのだ。
では、静止画として画質はどこまで問われるのか?
画質は良い方が良いに決まってるが、だからと言って画質の良さで作品の評価は決定しない。
これは画質以外が尺度として機能してる場合と、受け手である人間が感情の生き物であるという不安定さがあることで起きてるようにも感じる。
画質は良いけどそれが何なのかは説明されなければ分からないものと、画質はイマイチだけど何が映ってるかは説明されなくても分かるものがある。
分かる分からないは知ってる知らないによる違いではなく、直感的な理解を促すか促さないかによって起こる違いだとすると、気持ち良いかそうでないかの違いになる。
現代は画質の良い時代だ。
この画質が良いとは比喩的な解釈も可能で、現代人は知識があって昔の人より同じテストをすればより高得点が取れるというような意味にも取れる。
昔より高得点が取れるということは、生活のクオリティ全般にも当てはまる、だから寿命が延びてるのだろうし。
人間は道具を使う生き物で、その道具はどんどんスペックアップしている。
しかし、そのことが幸せに繋がってるかと問われたらその答えは単純ではない。
画質が上がるように、あらゆる道具のクオリティは上がり続けている、もうこれ以上は必要ないと思うレベルに達してもさらに上を目指すし、その需要も尽きるようで尽きない。
きっと道具のスペックアップの結果、そのトレードオフの関係にある何かを失っている。
失ってる何かとは知恵のような気がする。
自然災害とその復興の繰り返しを見てるとそう思えてしょうがない。