以前に読んだことある本でそこそこ気に入ったものでも、読み返すとこんなこと書いてあったっけという部分に出くわすと、得した気持ちになる。
ドラマや映画でも『前に見た時こんなシーンに気付いてたっけ』と思える時には新鮮な気持ちになれる。
これは、覚えているようで覚えてないことがあるということと言えるし、以前と今とでは興味や関心あるいは感受性が変わっているとも言えるし、単なる気分のせいだとも言えるだろう。
それでも、やっぱり前と一緒だなとしか思わない時より気分は良い。
記憶がハッキリしてれば出会えない感覚が快感につながることがある。
通勤や通学などで毎日通るルートでも同じようなことは当てはまる。
天気や季節や気分が違うだけで見慣れてるはずの景色に新鮮さがある場合もあれば、この景色もこのルートに時間を費やすことも得るものがない無駄にしか感じなかったり。
新鮮な気持ちを味わいたい時に、何を考え、何を求めるかは人によって大きく違う。
まったくの未知じゃないと心が動かない人がいる一方で、既知の中に未知を見つけることにワクワク出来る人もいる。
既知の中に未知を発見するためには、既知の曖昧さが必要になる。
既知の中に未知を感じるというと、最もお手軽なものが写真だと思っている。
目の前にある被写体(それが何であれ)を見ながら写してるのに、撮影されたものを見て、『違う、これじゃない』と思うことの何と多いことか。
だからと言って、細部に目を凝らしても違っているわけではない。
強いて言うなら、撮れた写真を見ておそらく味わえると予感していた感情に出会えないのだ。
その思いが、『違う』と思わせるのだろう。
逆に、見慣れたありふれた被写体なのに『初めて』が感じられればきっと『これだ』と思えるだろう。
これも既知の曖昧さが関係してるかもしれないが、曖昧さは無自覚な広がりを生むこともある。
写真が好きなこととカメラが好きなことは、重なる部分もあるが、まったく異なっていることも少なくない。
写っているものが何かが重要な場合もあれば、写っているものは何でも構わないが写り方がどんな具合いかをひたすら追求するような場合もある。
写したいものや写り方を気にする場合、努力やセンスではカバーできないことも少なくない、そのような場合は写真を論じてるようでカメラという機材を論じるようになるが、その違いを自覚できずに議論だけが白熱することは多い。
これは興味や関心という自分自身のことなのに曖昧さを秘めてることにありがちなこと。
曖昧さが生み出すとしても、新鮮さが味わえるなら歓迎だ。