知ってる人は知っている、ビジネスと釣りをおもしろおかしく例え合う話がある。
あるビジネスマンが休暇に出た。
いろいろなことから距離を置きたくて。
いわば、『バッテリーを充電し直す』といったところかな。
彼は飛行機で遠くの国まで行き、
ある小さな村に辿り着く。
最初の数日間、彼は村人たちを眺めていたが、
その中のある漁師の男が特に幸せそうで、
一番充実していることに気がついた。
ビジネスマンは興味を持ってしまって、
ある日、その漁師に近づき、
毎日彼が何をして過ごしているか聞いてみた。
その漁師は、こう言った。
「毎朝起きて、妻と子供たちといっしょに朝食をとる。
それから子供たちは学校に行き、自分は釣りに出る、
そして奥さんは絵を描き始める。
数時間釣りをすると、一家の食事には充分なだけ魚が獲れるので、
早々に引き上げ、あとは昼寝をする。
夕食が終わると、奥さんと浜辺に散歩に行き、そこで夕日を見る。
子供たちは目の前の海で遊んでいる」
・・・とね。
ビジネスマンは、この話に驚いてしまった。
「そんなことを毎日しているのかい?」
と、彼は、その漁師にたずねた。
「だいたいは、そうだね」
と、漁師は答えた。
「時々、違ったこともするが、まあ、いつも同じようなことだ。
そう、これが私の人生なんだ」
「で、いつも魚は獲れる?」
ビジネスマンはさらに尋ねた。
「そうだ」
と、漁師は答えた。
「魚はたくさんいるからね」
「それじゃあ、家族にもってかえる分より
多くの魚をとることもできるのでしょう?」
と、ビジネスマンは尋ねた。
漁師の男はビジネスマンをじっと見つめ、
ニコリと微笑を浮かべながら答えた。
「ああ、そうだとも。時には必要以上獲れることもあるが、
そんな時は逃がしてしまうのさ。
わかるだろう、私は釣りが大好きなんだ」
「だったら、なんで一日中釣りをして、
できる限り多くの魚を獲ろうとしないんだ?」
と、ビジネスマンは聞いた。
「そうすれば、その魚を売ってお金儲けができるじゃないか?
そうすれば、すぐに二艘目のボートが買えるようになる。
三艘目も。それで、その船に乗った漁師が
もっともっとたくさんの魚を獲ることができる。
そうすれば、数年で大きな都市に事務所を構え・・・
賭けてもいい、10年もすれば
他の国に魚を輸出して大成功することもできる」
漁師はまたビジネスマンを見つめながら微笑んだ。
「なんで、そんなことまでしなければならないのかね?」
「それは、お金のためさ。
そうすれば金がたんまり儲かるし、そうなれば引退さ」
「で、引退したら、いったい私は何をするんだね?」
漁師は笑みを浮かべながら、
ビジネスマンに尋ねた。
「それは、そうなったら好きなことをすればいい」
「たとえば、家族といっしょに朝食を食べるとかかね?」
「そう、そうだよ」
と、ビジネスマンは答えた。
漁師の反応が悪いので少し拍子抜けをしていた。
「それで、釣りが好きだから、
したくなったら毎日少しでも釣りをすればいいのか?」
と、漁師は話を続けた。
「それでいいんじゃないかな。
その時までに魚は少なくなってしまっているかもしれないが、
それでも少しは獲れるさ」
「それから、夕方になったら妻と時間を過ごすということだね?
浜辺を散歩して、夕日を見たりする。
その時子供たちは家の前の海で遊んでいるということかな?」
と、漁師は聞いた。
「そうだよ。好きなことができるじゃないか。
でも、その時ぐらいになれば、子供たちも、
もうすっかり大きくなってしまっているかもしれないけれど」
と、ビジネスマンは答えた。
漁師はもう一度、ビジネスマンに向って微笑み、彼と握手をし、
バッテリーの充電がうまくいくようにと声をかけて去っていった。
引用:「なぜ、あなたはここにいるの?カフェ」ジョン・ストレルキー著
なるほどと思わせる話にも感じられるし、ツッコミどころの多い話にも思える。
私がこの話を初めて知ったのはかなり前のことだと記憶してるが、今回改めて読んで以前とは全く違うことを感じていることに気付いた。
一言で言うと、ささやかでも生きがいや楽しめることを持つことが生きるためにはとても大事だということ。
この話と結びついた別の話が、強くそう思わせてくれる。
ゴミ屋敷の住人は、どんな人なのか、何を考えているのかという話だ。
多くの人が、仕事を通じて、趣味を通じて、家族を通じて、友人知人を通じて、その他にもいっぱいあるだろう物や事を通じて自己実現を目指してる、時代の波を自己流で渡りながら。
冒頭の話の漁師もビジネスマンもどちらも自分の波をきっちり掴んでいるのだろう。
ただ二人が乗ってる波は性質が全く違うので、乗りこなし方も全く違ってる、だから内心お互いに相手が哀れに感じられただろう。
この二人は、波に乗れてるから問題ないのだが、問題は波から落ちた人だ。
いや波から落ちただけだと新たな波に乗ればいいだけなのだ、サーフィンのように。
問題は波に追い越されて、取り残される人だ。
取り残されるというのは、サーフィンに例えると分かりづらい話になるかもしれない。
ここからゴミ屋敷と結びつくのだが、そんな波から落ちて彷徨ってる人の一部が、ゴミ屋敷の住人として顕在化している。
近隣の住民とトラブルを犯し、行政を巻き込んで、マスコミで見世物にされる、そんなゴミ屋敷の住人は、なぜゴミを集めるのか?
良くないことはわかっているのに。
それこそが、彼らが掴んだ波だからだ。
やれることもやりたいことも見つからない彼らに、生きる力を与えているのがゴミの収集あるいはゴミを溜め込むという行為なのだ。
最初からそうだったわけではない。
時代に翻弄され、波から落ちたままになって、次が見つけられずいるその足掻きがゴミに向かわせるのだ。
他にすることもしたいこともないからゴミを集め、ゴミを溜める。
生きた証がゴミであり、ゴミが生きるモチベーションになっているのだ。
それが彼らが掴んだ波だと書いたが、溺れるものが掴んだ藁なのかもしれない。
そんなゴミ屋敷の話が、橋本治の「巡礼」にでてくる。
そこで気になったのは、「ゴミマンション」や「ゴミアパート」のような“見えないゴミ屋敷”が急増している点である。「500世帯あれば2~3件は必ずある」という処理業者の言葉を信じるのであれば……少なくとも0.4%の確率で“見えないゴミ屋敷”は、存在しているわけである。
確率0.4%の世界とはどういう世界だろうか?
パチンコで大当たりする確率 1/400
裁判員に選ばれちゃう確率 1/5,000
自動車事故で死ぬ確率 1/10,000
四葉のクローバー発見確率1/10,000
飛行機が墜落する確率 1/200,000
雷に撃たれる確率 1/10,000,000
ジャンボ宝くじ1等 1/10,000,000
隕石に当たる確率1/10,000,000,000
パチンコで大当たりするより高い確率でゴミ屋敷が存在していることになる。
ゴミ屋敷の住人は、その行動力から考えても、怠け者ではない。
たぶん人生を難しく考え過ぎたのだろう。
発生確率だけで考えたら、明日は我が身である。
人間とはどんなに短い時間の退屈も耐えることはできない。
しかしそれはとてつもなくささいなことでも紛らすことが可能である。
楽しめることを持ってる人が、一番強いかもしれない。