違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

無限のグラデーションのあるところに差別あり!

区別と差別の違い。

 

辞書的には次のようになる。

 

「さ‐べつ」【差別】

1 あるものと別のあるものとの間に認められる違い。また、それに従って区別すること。「両者の―を明らかにする」

2 取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと。「性別によって―しない」「人種―」

「く‐べつ」【区別】

あるものと他のものとが違っていると判断して分けること。また、その違い。「善悪の―」「公私を―する」

(国語辞書 – goo辞書)

 

この辞書的な意味を踏まえて世間では次のように解釈されていることが多い。

 

「差別」は比較することで優劣や上下関係をつけて分けること。

「区別」は対等な関係を保ちながら違いを認めること。

 

「差別」は非合理的な差の認識

「区別」は合理的な差の認識

 

※上記の引用は下記サイトから

http://kokoro-lifehack.com/archives/832

 

 

 

この世間的な解釈に違和感を感じる人は少ないだろう。

 

誰もが解釈レベルは共通していても、実際の日常生活での運用に関してはとても疑問や不思議が多い。

 

 

世の中に存在する差別や区別について考えていると、本来は違うはずのこの両者はほとんど同じものに思えてくる。

 

差別や区別は、無限のグラデーションを描きながら違っているので、全く違ったものに思えることもあれば、隣り合ってるように見えるものもある、しかし全部を繋げると境目はあるようでないと気付く。

 

東野圭吾は著書『片想い』の中で、男と女という性はコインの表と裏の違いではなく、メビウスの輪のようにある部分を取り上げると表と裏に見えるが全体を見ると繋がっていて結局違いがないと書いている。

 

 

 

男と女では身体が違うのは間違いないので日常生活では区別が行われるのは合理性が感じられるが、その違いに優劣が持ち込まれると現代では区別は差別にシフトすると捉えられるが、少し歴史を遡るだけで区別に優劣も含まれていたことを知ってる人は多いはずだ。

 

言語明瞭意味不明な表現として、

 

  • 男らしい男
  • 男らしくない男
  • 女らしい女
  • 女らしくない女

 

がある。

 

男らしくない男のことを、「女が腐ったような」と表現することがあるが、こうなると違いを示す表現ではなく差別になることは誰でも分かるだろう。

 

東野圭吾が言うように男と女はメビウスの輪の関係だとすると、男にも女にも両方の要素が存在するので一人一人が持つ男度と女度には無限のグラデーションが存在することになる。

 

身体が備えてる性機能と心が感じてる性が一致しないことは起きても全く不思議がないのに、最近まではそういう存在の人はいないことにされていたし、本人もそのことを打ち明けづらい状況があっただろうが、最近ではLGBTなどと呼ばれることで社会的な認知は進んでいるが、まだ区別というよりは差別に近い雰囲気が感じられるが、確実に世の中がシフトしてることは感じられる。

 

また最近よく耳にすることばに発達障害というのが増えてきた。

 

男と女の関係におけるLGBTに似ていて、正常と異常の間に存在する無限のグラデーションを受け持つことばとしての役割を果たしているように感じられる。

 

おそらく、正常と異常もコインの表と裏の関係ではなくメビウスの輪のように繋がった関係だと思える。

 

そうすると、世の中の殆どの人は程度の問題はあれど発達障害に該当するだろう(もちろんわたしも)。

 

人間の性に関しては区別のつもりで差別することがあっても、動物や虫の性に関しての差別はほとんど無いのは区別として使われれているからだ。

 

虫に関して例外的に差別かもと思えるのは、カブトムシやクワガタのオスとメスでは人気が違う点だが、これは外見の違いに根差している、あくまでも偏った人間目線の話に過ぎないが。

 

差別というのは実にわかりやすい形で表に現れていると再確認できる。

 

区別と差別の論争は表現行為にも及んでいるようで、そういう場では法律が介入するようだ。

 

 

 

ことばを高度に使いこなす人間は、定義したがる生き物だ。

 

定義から外れるものに対して最初に生まれたのが区別だが、その区別に優劣が持ち込まれると差別という概念が生まれるようになる気がする。

 

一旦生まれた感情や概念は、あっという間に定義がなされ定着する。

 

進歩や進化とは、古い定義の持つ違和感に反応できることで実現されてるような気がしてくる。

 

古い価値観にしがみつく人を頑固な人だと呼ぶのは区別かもしれないが、遅れた人だと表現すれば差別だろう。

 

しかしそんな価値観を巡っても無限のグラデーションが存在してるはずだ。