コピー&ペースト(略してコピペ)、これが当たり前の日常に入り込んだのはいつ頃からだろうか?
2004年以降の検索推移を知ることができるGoogle Trendsで見ると、
2004年には略語としてのコピペがすでに存在していたことが感じられる。
コピペの浸透は、PC等のOSやデバイスの性能とネット上を含めてデジタル情報の豊富さと内容の充実という二つの要素が揃ったことで可能になった。
良し悪しということではなく、コピペが可能になったことで起きた変化について思った。
リアルタイムで経験したシフトには案外自覚が乏しく、今朝寝起きでふと思った話。
ネットやPCが一般生活に入り込む以前の学習では覚えることがスタートだった。
分からない状態からスタートし、初歩的なことを覚え、初歩的なこと以上の課題に直面してはまた覚える、これを繰り返すことで高みに至るというプロセスが一般的だった。
もちろん、受験のように他人との競争ということに関しては、記憶力の違いや、要領の良し悪しという違いはあっても、自分事としては覚えるということの積み重ねしかなかった。
何かをアウトプットするためにはインプットの積み重ねが必要だった。
確かなアウトプットのためには、確かなインプットが必要で、インプットが順番としては先だった。
今朝寝起きに思ったのは、コピペが可能になったことで最低限のインプットでも運が良ければそこそこのアウトプットが可能になってるなということだった。
それは同時に、そこそこのアウトプットができるからといって、そのアウトプットに見合うインプットがあるかというと必ずしもそうではないということも意味している。
自分のことを振り返ってふと思ったのだ。
遊びや趣味で電子工作やプログラムをしていて、そこそこに理解を深めたつもりになっていても、意外と基礎の基礎が疎かなために、シチュエーションが違うと途端にちんぷんかんぷんになり、検索してコピペに頼ろうとする自分がいる。
そんなレベルでも、ベースとなるコピペファイルが優秀だとアレンジも効くので自分がレベルアップしたように感じてしまう。
コピペが文化として定着したことで、すごくできそうな人がびっくりするほどできないことも増えたし、逆に大したことなさそうな人が意外なファインプレーを見せたりすることが増えたように感じる。
そして、本当に優秀な人が確実に減ってるのではないかと感じられる。
情報化社会と言われるようになって久しく、出回る情報が増えれば増えるほど意識せざるを得なくなるのがエントロピー増大の法則。
存在するものは全て、無秩序に拡散し最後は形を失う、それがエントロピー増大の法則。
その時間軸には様々あるが。
コピペは、世の中をこんなはずではなかったという方向に導いているのかもしれない。