アナログな時代であろうとデジタルな時代であろうと、情報は人によって発信される、情報の帰属先は組織であっても、大元にある情報を見聞きしてそれを新たな情報にまとめ上げる作業は個人や少人数のグループに由来するものがほとんどなので、情報は個人的なものと言えそうだ。
かつて(とは言ってもインターネット普及前頃)は、情報は入手する側の能動性を必要としたので、入手の第一歩として自分が何を求めているか、何が必要かを、自分で気付く必要があった。
自分に合わない情報は、見ても聞いても読んでも頭には入らないし残らない。
昭和→平成→令和と時代の移り変わりをリアルタイムで経験した人の多くには上記のような話が当てはまるだろう。
インターネットが普及しても、最初の第一歩には能動性が必要だった。
何でもありそうだけど探さなければ見つからないという特徴は相変わらずだったので、検索という作業が必要とされた。
検索するためには、自分が何を探しているかを表現することが必要で、この作業は簡単なようで実はかなり難易度が高い。
だから、自分なりに検索しても目的を達することができない人は珍しくなかった。
検索してたどり着いても、その情報を読解できなければ、検索しなかったことと同じになるのだ。
一つの情報を読み解くために検索地獄に陥るような人は検索しなくなるのは当然で、最近では言うところのリテラシーとは別に基礎学力はやっぱり必要とされるのだ。
その結果検索すらしない人は増え、そういう人を揶揄する『ググレカス』といことばすら生まれた。
GoogleTrendsで見ると、ググレカスが使われたピークは2007年11月。
わたしには一種の啓蒙を促すことばに感じられていたググレカスは、啓蒙どころか検索を必要としない流れの顕在化の始まりだったのだ。
これ以降の10年ほどの間で、情報はタイムラインを流れるものになり、その流れの中から気になった情報や気にいる情報だけをピックアップするような流れがむしろ一般的になっているのかもしれない。
わたしは何かあると検索して情報を探すタイプだが、今ではマイナーな側なのかもしれない。
こういうことも情報格差と言えそうだ。
わたしは情報的に優位にいたいという気持ちを持ってるが、それは『騙されないぞ』という気持ちから生まれてるような気がする。
誰でも騙されたいとは思ってないだろうが、情報的に優位にいたいと思うような人はどんどん減っているのかもしれない。
検索するという行為は、一般的にはブラウザを使ってキーワードを入力して、その結果出てきた情報の中から取捨選択して目を通すが、検索しない人々は『情報=アプリ』なのだ。
一事が万事とまでは言えないだろうが、地図アプリが充実したことで地理に疎い人が増えている。
中には何度も行ってる場所なのにアプリなしでは行けない人もいる。
似たようなことをカーナビが普及し始めて新車に標準装備され出した頃にも感じたことがある。
わたしはナビ付きの車でもナビには頼らないが、そのきっかけになった出来事がある。
一緒に仕事をしていた同僚で、お互いに何度も行った場所の途中のルートの風景の話をした時に『あそこのビル…』と、運転してれば嫌でも目に入るルート沿線のビルの話をした時に、そのビルが全く理解出来なかったということがあった。
よくよく話を聞くと、ナビばかり見てるから景色とか見てないと答えたのだ。
『ふ〜ん、そうなんだ』と思いながら、『ナビに頼るとバカになる!』と思った瞬間でもあった。
困るか困らないかで言うとどちらでも構わないのだが、便利と表裏一体のリスクを感じた瞬間だった。
基本的に世の中のベクトルは楽や便利に向かう。
楽や便利を享受するたびにトレードオフとして持ってる何かの能力を退化させてることを意識した方が良い。
念のために付け加えると、クソ暑い日本の夏で冷房を使うなという話ではない。
発される情報が質的に変化してると感じられる時は、誰に向けて発されているかが変化してるはず。
現代の情報は、検索しない人に向けて発されてるものが大半だろう、だからこそGoogleも苦労してるのだ。