違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

ディスプレイサイズに振り回された21世紀

しばし昔話をするが、懐かしむためではない、話の流れを整理するためだ。

 

インターネットが普及し始めた頃は、PCのみが入り口だった、それもデスクトップ。

 

思えばデスクトップPCのディスプレイも最初はブラウン管だったなと思い出す、ブラウン管だったらノートPCは不可能だ。

 

PCにモバイルという概念が持ち込まれ浸透するのは少し先の話。

 

そしてその入り口にはブラウザしかないという時期が長かった。

 

今はアプリと呼んでるものは多くがソフトと呼ばれていて、専門性が高いものだったし、ソフトの多くはPCの中だけで動作するものだった。

 

だからだろうが、昔のブラウザからアクセスするインターネットの世界は無限の大海原に感じられた。

 

PCにモバイルという概念が持ち込まれるようになっても、モバイル用のネット回線がすぐに普及したわけではなく、ただ持ち歩きのPCが増え、多くは行った先で有線や無線(Wi-Fi)を使わせてもらうものだった。

 

 

わざわざこんな昔話をしたのは、究極的には同じものがまったく異質な存在になったのがブラウザとアプリの関係だと思えたから。

 

現代のアプリのほぼ全てがネット接続を前提にしてるはずで、ブラウザからのアクセスも可能だとすると、アプリからのアクセスとブラウザ経由でのアクセスは中身においては同じものになる。

 

アプリという呼び名の定着はスマホの普及によるところからとすると、アプリが目指したのはディスプレイサイズに対する最適化のはず。

 

しかし、この本質的には同じだが見え方が違うだけという事実は、気持ちの上では大違いにつながっている。

 

ブラウザからのアクセスだと大きな広がりを感じさせた世界観が、アプリからのアクセスになると閉鎖的な囲われた世界観に感じられてしまうのだ。

 

閉鎖的な囲われたと表現すると良いイメージはないかもしれないが、仲間意識や連帯感が感じられると表現すると良いイメージになる。

 

 

ところでPC、スマホ、タブレットとモバイル性やディスプレイサイズでの棲み分けができているはずだと思われていたが、スマホもタブレット(主としてiPad)も大型化へ向かい、PCもモバイルに限定すると13〜14インチサイズが主流で定着している。

 

ディスプレイ上での体験の質を求めると、小さければ良いという方向性はすっかり終わったように感じる。

 

テクノロジーの世界では、小型化こそがイノベーションであり技術力のアピールになるが、ディスプレイを備えたデバイスは大型化が付加価値になっているのがおもしろい。

 

巷ではApple製品が一斉値上げになったようで嘆きの声が大きいようだが、現在の不満がディスプレイサイズにあるならば、知恵の活かしようはいくらでもありそうに思える。

 

 

ディスプレイサイズの大型化とスペックアップはセットで実現されていたが、本当はスペックアップは必要なかったという人も多いのではないだろうか。

 

ディスプレイサイズを求める際に、ベゼルレス(狭額縁)が付加価値として威力を発揮したのはデザインとテクノロジーの合わせ技だ。

 

ディスプレイサイズの大型化は一足早くテレビで起きていたし、テレビの大画面化に相乗りしてきたのがゲーム業界。

 

一方で究極の大画面である映画館での映画鑑賞はなんとなく寂しいイメージしかない。

 

果たしてどうなるか分からないのがメタバースで、これもヘッドマウントディスプレイを使った擬似超大画面が売りなのかと一瞬思ったが、メタバースの売りはそれに加えてコンテンツ内に自分自身が参加し登場できることにあるようだ。

 

これらの流れを総合すると、21世紀に入ってからの20年はディスプレイサイズに振り回された20年と言えそうな気もしてくる。

 

 

この傾向は今後も続くのだろうか?

 

それとも今がピークで落ち着いて行くのだろうか?