歴史を振り返ると人間は長い期間、肉体労働を中心にして生きてきた。
水や食べ物を取ったり運んだり、ものを作るのも肉体労働だが、その材料を取ったり加工したり、すべてが肉体労働に頼っていた時代が原点にある。
今現在も肉体労働は存在するが、昔の肉体労働が命を削る行為だったのに対し、現在の肉体労働の多くはスポーツ的になっている。
寿命の伸びを支えているのは、食事の質の向上や、医療の進歩と思われてるが、根本的な肉体労働のあり方が変わったことが最大の理由だと私は思っている。
ものづくりの現場に、機械が導入され自動化が進んだり、交通の発達などもあり、労働は命を削る行為から体に汗をかく行為になり、現在は頭に汗をかく行為が多くなっている。
労働が命を削る行為だった頃から最近まで、人間にとって最大の敵は"飢えと寒さ"だった。
この2つは、死ぬ理由でもあった。
だからだろうか、今でもこういうやり取りは生きている。
仕事を何のためにするか?
食うためだ!
労働を単純に体に掛かる負荷で見ていくと、どんどん軽くなっているが、体に掛かる負荷が軽くなるほどに、心に掛かる負荷が増えていく。
そんな印象を現代社会に感じる人も多いかもしれない。
体と心はバランスよくほどほどに疲れさせるのが一番良いと誰もが感じている。
そう言えば、「人はパンのみにて生くるにあらず」なんて言葉もあったなと思い出す。
イエス・キリストの言葉とされるが、この言葉の意味を、"食うだけではダメだ"、"食う"以外の目標や目的を持ちなさいと言ってるのだと捉えることが多い。
「人はパンのみにて生くるにあらず」には、この後に続く言葉がある。
「神の口から出る一つ一つの言葉による」と続き、メインはこちらだ。
その時代によって、神の発する言葉が変わりそうなところが悩ましい。
次の記事は、理不尽なことが起きたのか、それとも神の発した言葉に従ったのか?
同じ仕事、定年後賃下げ 「新入社員より低い」憤る原告 2018/6/1
「同一労働同一賃金」にも関連する二つの訴訟で、最高裁が1日、判決を言い渡した。一部の手当について正社員との格差を「不合理」とする一方、定年後に再雇用された嘱託社員が起こした訴訟では、賃金格差などを容認した。
先日、「文字は分かるが文は読めない」と言う人々が話題になっていたが、それと同様に、『評価されたいのに、評価されないステージを求める』人々も多くいるように感じる。
上記の記事の場合であれば、俗に言う“自分の市場価値”を、“何年続けてきたか”に求める人々と言うことだろう。
これは、経験や実績の積み重ねをアピールすることで自己主張しなければならない社会の風潮が大きく関係している。
世の中が連続性のみで成立しているのならば、それもしょうがないが、実際の世の中はそんなに単純ではない。
勝てば官軍、負ければ賊軍
評価が欲しいならば、評価させなければならない。
スペシャリストかゼネラリストかと言う選択ではない、どちらでも構わない。
“今”や“未来”を話題にしたいのに、“過去”ばかり話題にすることが問題なのだ。
そして“今”にも大きな問題がある。
人間には、“今”を過剰に評価する二つのバイアスがある。
現在志向バイアス
長期的な目標達成よりも、目の前の利益を優先してしまうというもので、ダイエットが上手くいかない場合の説明に使われることが多い。
現状維持バイアス
得をする可能性が、損をする可能性を上回っていても、変化することよりも現状維持を選択する傾向が強い。
「人はパンのみにて生くるにあらず」とは、この“今”を過剰に評価する二つのバイアスに対する戒めかもしれない。
このバイアスは、2002年にノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンが行動実験により実証したとされるが、実はキリストが生きていた頃から人間の特徴だったのだ。
人が何かを判断する時、そこにはいろいろなバイアスが隠れている。
バイアスは、行動学と心理学が重なる領域で発生するので、行動と心理に影響している。
過度にバイアスが掛かっていると、博打ばかり打つか、全く何もしなくなり、適度なバイアスがあると目標や目的に向かうことができる。
バイアスは、誰にでもあり、その程度は常に変化している。
自分自身のバイアスに気付け!