働かざる者食うべからず。
このようなことを言われるようになったのがいつ頃かは不明だが新約聖書にそれらしき記述があることからは、かなり昔から言われていたことが分かる。
お金が十分に機能していたとは思えない時代では、労働の対価は食料や食事だったのだろうということは想像しやすい。
と同時にもう一つ想像しやすいのは、すべての人になんらかの役割が割り振られていたであろうことだ。
割り振られる役割とは、決してやりたいことなどではなかったはずだし、選択の余地すらなかっただろう。
どのような役割であっても肉体を駆使するものがほとんどであったであろうことも想像しやすい。
翻って現代を考えると、対価はお金になり、お金を得るために果たす役割の種類は飛躍的に増え、新たにいくらでも創造可能になっている代わりに、隣の人のやってることすらよく分からない時代になっているし、得ている対価の多い少ないの格差もピンからキリまでに拡がっている。
21世紀に入ると、生活の中に無料で入手できるものが増え始めた。
それ以前は求人情報誌程度だったところにPCの普及でフリーソフトが登場し、無料のコンテンツも増え始めた。
2009年にはすべてのものはフリー(無料)に向かうと説く本も出て話題になった。
対価としてのフリー(無料)と同時にもう一つのフリー(自由)にも変化が現れ始めた。
好き勝手と解釈されることが多かった自由には、表裏一体で自己責任が付き纏うことが明らかになってきた、世間がそれを求める風潮が強くなり、自由と不自由も表裏一体だと明らかになってきた。
相反する概念が表裏一体の場合、両方の良いところだけをつまみ食いすることは成立しづらくなるので、自ずとトレードオフという考え方をするようになる。
日本で、フリーの動きにボランティアが加わったのが東日本大震災からで、検索のされ方に現れている。
海外由来の本来のボランティアとは決してフリー(無料)ではないが、日本では自由意志での参加だからということで対価が発生しない。
現場に入るまでの交通費や現場に入ってから発生するあらゆる経費が自腹で、必要な道具や機材は自ら調達することもボランティア参加者に求められるので、対価を求めるどころか出費がバカにならないほどかかるのだ。
困った人を助けることに対価は求めないというのは日本人のメンタリティには馴染みやすいが、最近では役割としてのボランティアを自治体が求める際の真の理由は対価を払いたくないという理由でだ。
対価を払いたくない理由は財源がないからという背景もあるだろうが、それだけでもないだろう。
東京オリンピックもボランティアを抜きには成立しないようにプランニングされてるが巨額の無駄遣いも多いところを見ると、ボランティアという存在が都合よく使われていることも感じられる。
人にはそれぞれに役割があるという言い方をする際には、背景には働かざる者食うべからずがあるような気がするが、役割を果たすから食えるのか、食うために役割を果たすのかが曖昧な時代になっている。
都合よく使われてるように感じられるボランティアの参加者が、そのことに気付いてないわけはない。
気付いた上でやらずにいられないのがボランティアなのだ。
役割だと思ってる人にはボランティアは無理だろう。
本当はこの世に役割なんて無いんじゃないかとも思える。
東京都大田区で3歳の女の子が母親の育児放棄で餓死してるのが発見されて、このニュースに胸が張り裂けんばかりの思いの人も多いだろうが、この女の子の役割はなんだったのだろうか?
ボランティアを含めて、この女の子を助けてあげるシステムや役割はなぜ機能しなかったのだろうか?
機能しなかったというよりも、役割が存在すると感じてることが錯覚そのものだと気付くべきなのかもしれない。
そう思ってるところに懐かしい人の話題が聞こえてきた。
コロナ前には時々思い出していたが、コロナですっかり忘れていた。
尾畠春夫さん。
大分県在住の尾畠さんは最も被害が大きい熊本県の現場にボランティアで入るつもりだったらしいが、県を跨いでのボランティアが受け入れられてないということで大分県の被災現場に入っていた。
役割なんて無いのではと思いながらも尾畠さんの情報に接すると、尾畠さんらしい役割を果たしているなと感じてしまう。
役割なんて錯覚だとは思っているが、確かに存在する錯覚もあるのだ、不思議なことだが。